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創業:西暦1421年、本願寺の御供物司「株式会社亀屋陸奥」

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第三十四回「株式会社亀屋陸奥」創業:応永28年(西暦1421年)

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室町時代中期の応永28年(西暦1421年)に創業した亀屋陸奥

浄土真宗中興の祖といわれる蓮如上人に仕え、文明15年(西暦1483年)に、京都山科に本願寺が建立され

「寺中は広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし」と言われた頃から 本願寺の、供物や諸事に携わってきた

元亀元年(西暦1570年)に始まった石山合戦では、約11年のあいだ本願寺に従い、石山開城後も本願寺と共にあった

代表銘菓「松風」が生まれたのはこの石山合戦の最中で、3代目当主大塚治右衛門春近が、兵糧の代わりにと知恵をしぼりつくったのがはじまりで

この戦いの後に京都の六条下間邸で顕如上人が詠まれた

「わすれては波のおとかとおもうなりまくらにちかき庭の松風」

という歌から銘を賜ったと伝わっている

天正19年(西暦1591年)に現在の地に本願寺が建立されると、亀屋陸奥も御用達の御供物司として寺内に移り

万治3年(西暦1660年)頃、豊臣秀吉が聚楽第の池に浮かべて興じた檜造りの大きな亀を公家の柳原家を通じて手に入れ

正徳5年(西暦1715年) に三条大納言より陸奥の大掾の御宣旨を賜ったことで、双方にちなみ亀屋陸奥と名乗るようになっている

作家の司馬遼太郎氏の歴史小説『燃えよ剣』『関ヶ原』にも登場した松風

小麦粉、砂糖、麦芽飴そして白味噌の4つを主な原料とし、それらを混ぜ合わせて自然発酵させる

でき上がった生地を円盤状の鍋に流し込み、大きな丸形に焼き上げ、短冊状に切って完成となる

創製当時には白味噌は使っていないとされているが、多くの方の支持により育まれ変化してきた証としている

 

現在も西本願寺への御供物の調達を家業としており、特に親鸞上人の報恩講の法要が行なわれる1月には多忙を極めている

 

報恩講に納める御供物は「御華束」といい、円筒形に巻いた麦藁に、串に刺した様々な菓子類をびっしりと盛り付ける豪華で精巧なもの

ものづくりの向こうに変わらない何かがある

そう信じ、あたりまえのことを、あたりまえに続けてきた五百有余年の歴史

いくつもの時代を、菓子づくり一筋に取り組み、喜んでいただける菓子を伝えている

さらに真心のこもった菓子づくりをめざし、歩みはこれからも続いてゆく

「この商売は目新しさや派手さを求めるのではなく、本願寺の発展とともに歩んできたその歴史を継承していくことが最大の使命」

と仰る21代目当主大塚經雄社長

これからも次代に向けて堅実に、真心を込めた菓子づくりを続けて頂きたい次第です

目指せ100年企業!第三十四回「株式会社亀屋陸奥」

http://kameyamutsu.jp/

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創業:西暦1333年、瑞光山清水寺の極伝「有限会社元祖黒田千年堂」

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第三十三回「有限会社元祖黒田千年堂」創業:元弘3年(西暦1333年)以前

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用明天皇2年(西暦587年)、尊隆上人によって開かれた出雲國神仏霊場第十一番の瑞光山清水寺

当時、水が一滴も出なかった瑞光山で、一週間祈願したところ水が湧き出した

その水は雨期にも濁ることなく、乾期にも枯れることなく、常に清い水を湛えたところから

清い水の出る寺、清水寺と命名されたと伝えられています

承和6年(西暦839年)に唐より戻られた天台第三祖慈覚大師円仁が立ち寄った際に

話された唐での羊肝料理を人々が、肉の代わりに豆や米などの穀物を使い、再現したのが精進料理となり

点心を経て、鎌倉期から室町期に茶の湯が盛んとなる過程で茶菓子となり清水羊羹が誕生したとされています

鎌倉期に随行山清水寺から、門外不出の極伝を授けられたのが、黒田千年堂の祖先であり清水羊羹元祖として誕生しました

正確なには不明となっているが、鎌倉期に創業していることから元弘3年(西暦1333年)以前に創業と伝えられています

優しい食感に、甘さが残らず控えめで、さっぱりと洗練されたその味を、長きに渡り受け継ぎつつも

驕ることなく、研究と改善を繰返し、門外不出の極伝を授かった名誉に恥じることなく今日を至っている元祖黒田千年堂

添加物を一切使用せず製餡から包装まで一貫して自社工場で製造する拘りは、

お客様へ安心して召し上がって頂きたい

と願う企業姿勢が反映されています

肉食が禁じられていた禅院での料理から生まれた元祖清水羊羹

僧侶をもてなした料理人の創意を受け継ぎつつ、この地を訪れる旅人を清水羊羹で癒して頂きたい次第です

目指せ100年企業!第三十三回「有限会社元祖黒田千年堂」

http://kurodasennendo.com/

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創業:西暦1329年、秀吉が命名「株式会社かん袋」

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第三十二回「株式会社かん袋」創業:元徳元年(西暦1329年)

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時は、元徳元年(西暦1329年)に和泉屋徳兵衛氏が和泉屋という商号で御餅司の店を開いたのがかん袋の創業です

応永27年(西暦1420年)頃、勘合貿易港となった堺に明より到着した農作物を、五代主人和泉屋忠兵衛氏が塩味で挽き合わし餅で包んだ

お餅をくるんで食べるところから「久留美餅」と称すようになったと伝えられている

文禄2年(西暦1593年)春、桃山御殿が完成したのを機会に、秀吉は寄付金の礼として堺の商人納屋衆を招いた

この時、天守閣は暑い日盛りの下で瓦を葺いており、職人が一枚一枚瓦を運び上げている最中だった

和泉屋徳左衛門は、毎日奉仕に出て瓦を取っては次から次へと屋根の上に放り上げました

この様子をみた秀吉が、「紙袋が散る様に似ている」と称え、「以後かん袋と名づけよ」と命じた

この時に商号が和泉屋から現在の「かん袋」となっている

明治時代には、冷凍技術が輸入され、カキ氷をかけて食べられるようになったことで「氷くるみ餅」が誕生している

原材料、製法は門外不出とされており、一子相伝で全く公表されていない

「子供の頃から家業の手伝いをして味と技を覚えた」

二十七代主人となる今泉文男氏は、今も一人で手造りしている賞味期限当日の生菓子

塩味から始まり砂糖へと変遷するも、その時代毎にこれ以上ない味を極めた完成品

伝統の製法を忠実に受け継ぎつつ、時代ともに進化する生菓子

濃厚な餡に弾力ある白玉団子

創業以来、直向きに「くるみ餅」だけを製造・販売する単品経営

「これよりおいしいものができないから」

この一言に、長い歴史が凝縮されていると言っても過言ではない

目指せ100年企業!第三十二回「株式会社かん袋」

http://www.kanbukuro.co.jp/

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創業:西暦1327年、紅蓮尼の煎餅「株式会社紅蓮屋」

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第三十一回「株式会社紅蓮屋」創業:嘉暦2年(西暦1327年)

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悲恋の主人公、小太郎・紅蓮尼の「軒端の梅、心月庵紅蓮尼物語」

西国三十三観音巡礼の旅の途中、象潟の森隼人と松島の掃部は道連れとなりました

幾月かの泊りを共にした二人は別れを惜しみ、親戚の関係を結びたいと

森の娘谷と掃部の息子小太郎の婚約を整えた

掃部が霊場巡拝の長い旅から帰っると小太郎は、病がもとで亡くなっていた

しかし死を知る由のない谷は花嫁姿で掃部のもとを訪れ

「親同士が許した以上女夫とし、命の終るまで仏に仕え奉る」

と松島に残った

掃部夫妻が亡くなった以後、谷は世の無常を強く感じ逝ける人達のために冥福を祈る為

髪をおろし尼となり紅蓮と改めた

嘉暦2年(西暦1327年)、紅蓮は心月庵を開き、供えられた米で煎餅を焼いて村の人々に施した

これが誰言うともなく「松島こうれん」と呼ばるようになり、紅蓮屋心月庵の創業と伝えられている

「松島こうれん」の原料はうるち米と砂糖と塩で、薄い餅状にしたものを炭火で焼き上げた煎餅の一種

簡素な菓子ではあるが分量が少しでも違えば別物となる為、一子相伝にて現在まで代々に渡りその製法を伝え続けている

戦時下では、食料不足により製造が出来なくなり

先般の東北大震災では、洪水による被害で製造が出来なくなった

長い歴史の中で数々の難を乗り越えて受け継がれた「松島こうれん」

その理由は代々、伝わる家訓にあった

「紅蓮尼の徳を絶やさないこと」

日本三景のひとつ松島で語り伝えられている、見ぬ夫に一生を捧げた日本女性の鑑のものがたり

長く深い歴史に積み上げられた徳を今後も絶やさず受け継いで頂きたいものです

目指せ100年企業!第三十一回「株式会社紅蓮屋」

http://www.matsushimakouren.com/

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創業:西暦1184年、源平合戦の古戦場「有限会社藤戸饅頭本舗」

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第三十回「有限会社藤戸饅頭本舗」創業:寿永3年(西暦1184年)

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源平合戦の古戦場として知られる史跡・藤戸の渡し

源平盛衰記によると、源平両軍が大戦した寿永3年(西暦1184年)、一面が海であった当地

源氏の将佐々木盛綱が、村人の案内で藤戸の浅瀬を馬で渡り、平家の虚を衝いて大勝した

しかし作戦の秘匿上、この村人を斬り捨てなければならなかった

村人の霊を永さめる供養が藤戸寺で行われ、近くの民家からまんじゅうが供えられた

これが「藤戸まんぢゅう」の起源だと伝えられています

創業当初は、お餅に近いような饅頭で、元禄時代頃まで藤戸寺の境内の茶店で売られていました

常に創意工夫を重ねた「藤戸まんぢゅう」は、全国を行脚し各地の饅頭を学んだ文化10年(西暦1813年)生まれの三代目当主金本亀三郎氏により

餅米で作った甘酒の搾り汁と小麦粉を練って発酵させた薄皮でこしあんを包み、蒸す現在の原型を確立している

この頃に、まんぢゅう小屋で販売されていた藤戸まんぢゅうは、万延元年(西暦1860年)に現所在地にて藤戸饅頭本舗として店を構えたと記されている

昭和45年(西暦1970年)には、六代目金本正己氏が、手造りから機械化へと移行するものの

代々受け継がれた伝統の味と製法は守り通し、生菓子に拘る姿勢は賞味期限を3日とさせている

物流が発展した現代だからこそ、生活に密着し地域に根差した生菓子

当地でなければ手に入れることが出来ない藤戸饅頭本舗の理念は

「継続は力なり」

そして、現七代目当主金本博行氏は断言する

「目先の売り上げ拡大のために増産や多角化を考えない」

これからも藤戸まんぢゅう一点を守り通し、重く深い一歩を着実に進んで頂きたい次第です

目指せ100年企業!第三十回「有限会社藤戸饅頭本舗」

http://www.fujito-manjyu.co.jp/

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創業:西暦1189年、弁慶の賞状「有限会社五郎兵衛飴総本舗」

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第二十九回「有限会社五郎兵衛飴総本舗」創業:文治4年(西暦1189年)

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遡ること11世紀半ば、陸奥の土豪安倍一族が朝廷に背き、10年以上反抗を続けた「前九年の役」

鎮圧に向かった源頼義、義家親子に従軍していた長谷川五郎兵衛実義

進軍中に負傷し、芦ノ牧温泉に近い小谷という地に身を隠した

その後、実義は土着し平安時代末期の治承年間(西暦1177~81年)に、子孫が黒川に出て飴屋を始めた

この時に長谷川五郎兵衛が創業したとされている

また、源義経公が平泉落ちの途中に立ち寄り、飴を所望した際の代金の借証文として伝えられている武蔵坊弁慶自筆の賞状がある

日付は文治4年(西暦1189年)4月2日となっており、既に五郎兵衛飴総本舗が飴屋として創業していたことが記されている

天正18年頃(西暦1590年頃)には、時の国主蒲生氏郷公より御用商の命を受けており御判板と古文書が今も残っている

その後、代々の国守諸公を経て、12枚の御判板となり会津藩主松平公の御用達を承り、戊辰戦争の慶長4年頃(西暦1868年)頃まで受け継がれました

戊辰戦争の時には白虎隊の携行し、明治天皇にも献上された五郎兵衛飴

もち米95%と麦芽5%を糖化して袋に入れて絞り、じっくり煮詰める

寒天と合わせて乾燥したものを手で切り、ひとつひとつ手作業で大切に包装する

800年に渡り同じ製法で作り続けられてきた純粋食品は滋養に富み、品質良好で舌ざわりも良い

三十八代目五郎兵衛となる、長谷川久雄さんの言葉

「飴作り、愚直にこだわる」

変わらぬ味と製法を守りつつ、琥珀の宝石を後世に伝え残して頂きたい次第です

目指せ100年企業!第二十九回「有限会社五郎兵衛飴総本舗」

http://www.aizu.com/org/aizu/goroube/

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創業:西暦1532-54年、北近江の地酒「冨田酒造有限会社」

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第二十八回「冨田酒造会社」創業:天文年間(西暦1532〜1554年)

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近江で栄えた近江源氏の佐々木京極家が衰退したことで、冨田八郎家が木之本宿に土着し帰農したのが天文2年(西暦1533年)

爾来造り酒屋を営む傍ら庄屋など豪商として宿場内で大きな影響力を持つ中で、冨田酒造は創業しました

牛馬市が開かれるほど規模の大きかった木之本宿、参勤交代をはじめ多くの人々が行き交う宿場町として栄えました

銘柄「七本鎗」の由来は、天正11年(西暦1583年)、信長の跡目をめぐって羽柴秀吉と柴田勝家が戦った「賎ケ岳の戦い」に遡る

勇猛果敢な働きによって秀吉を天下人へと導くきっかけとなった七人の若武者

加藤清正・福島正則・片桐且元・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟谷武則の総称「賤ヶ岳の七本槍」にちなんでいる

つまり七本槍は「勝利の酒」「縁起の良い酒」というめでたい側面も持ち合わせている

延享元年(西暦1744年)には、現在の建物が建てられており、その伝統ある歴史を刻んでいる

 

大正2年(西暦1913年)、まだ福田大観と名乗っていた若き北大路魯山人が、長浜の紙文具商河路豊吉にその才能を見込まれ長浜をはじめ湖北地域に逗留していた

十二代当主冨田八郎氏とも交流があり、店内に掲げられている「七本鎗」「酒猶兵」の作品を残している

明治期には、明治天皇が北陸ご巡幸をされる際に、岩倉具視が宿泊するなど戦国以来、名家としてこの地の発展に深く関わったことが伺える

「日本酒の原料は、米と水」

「米も水も人も、地元のものでなければ意味がない」と断言する現十五代当主冨田泰伸氏

一年を通して冷たく良質な軟水が奥伊吹山系の伏流水として豊富に湧く井戸水を仕込水

この仕込水に、地元の米が相まってこそ、それぞれの地に根付いてきた本当の地酒

守るべき部分は守り、変えるべき部分は挑む

冨田酒造有限会社の理念は、

「地域に根ざしたお酒を造りたい」

木之本宿の名家として、これからも世界へ近江を日本を発信して頂きたい

目指せ100年企業!第二十八回「冨田酒造有限会社」

http://www.7yari.co.jp/

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創業:西暦1550年、濁酒造り「小西酒造株式会社」

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第二十七回「小西酒造株式会社」創業:天文19年(西暦1550年)

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天文19年(西暦1550年)、伊丹で薬種商を営む小西新右衞門が始祖となり、濁酒造りを開始

慶長17年頃(西暦1612年頃)、初代当主、新右衛門宗吾が清酒業を本業とするようになり、酒樽を馬の背に乗せ、江戸への運送を開始

寛永12年頃(西暦1635年頃)、二代目当主、小西新右衛門宗宅が江戸へ酒樽を運ぶ途中、雪をいただいた富士の気高さに感動し、清酒を「白雪」と名づける

寛永元年(西暦1661年)、伊丹とその近隣11村を合わせた伊丹郷町が、天領でも藩領でもない、公家の近衛家領となる

元禄10年(西暦1697年)、伊丹郷町に「惣宿老制度」が設けられ、四代当主、小西新右衛門霜巴も帯刀を許され以降、小西家は代々その職につく

天明6年(西暦1786年)、伊丹郷町の惣宿老を独りでつとめるようになった七代当主、小西新右衛門朝巴が修武館を設ける

この時に、小西家の伝統的な行動規範となる「生活即武道」の精神が形成される

明治2年(西暦1869年)、修武館を私塾として一般公開するとともに、師範を招いてますます武道の発展に寄与

昭和8年(西暦1933年)、家業のうち、伊丹酒造部を独立させ小西酒造株式会社を設立

460年、貫いてきた酒造りへの思い

そして

200年、地域社会の秩序安定に尽する思い

このような、伝統と地域を守り続ける小西酒造株式会社の理念

「味づくり 幸せづくり ひとすじに」

永遠の本質は、新しさを求めて、常に変化する流行の中にこそある

つまり、不易流行の経営革新の実践

誰も歩いていない道を行く、小西酒造株式会社の伝統と革新の追及をいつまでも見届けたい次第です

目指せ100年企業!第二十七回「小西酒造株式会社」

http://konishi.co.jp/

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創業:西暦1548年、新潟の蔵元「吉乃川株式会社」

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第二十六回「吉乃川株式会社」創業:天文17年(西暦1548年)

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越後の虎と称された戦国大名の上杉謙信が春日山城に入城した天文17年(西暦1548年)

酒・味噌・醤油といった醸造業が集まっている旧三国街道の摂田屋に若松屋として創業したのが、吉乃川株式会社の始まりです

三国街道は五街道につぐ主要街道で、北国街道・会津通りとともに佐渡三道と呼ばれていました

江戸時代には江戸から佐渡金山への街道となり、金山奉公や参勤交代の殿様行列で往来で賑わう中

吟醸造りを基本に据え、伝統の技術を継承し、日本酒を醸造し続けた歴史

慶応元年(西暦1865年)に泉屋へ、

大正10年(西暦1921年)に中越醸造株式会社へ、

大正11年(西暦1922年)に中越酒造株式会社へ、

昭和48年(西暦1973年)に吉乃川株式会社へと商号を変更する中

米の少ない時代も、酒造りの基本は吟醸造りとし、代々続く技術と伝統を絶えることなく守って続けた吟醸蔵

「酒造りは一に水。二に米、三に技、四に風土」

一を支える仕込水は、敷地内の地下深くから湧き出る日本一の大河、信濃川の伏流水「天下甘露泉」

二を支える米は、米どころ新潟米を原料に使いつつ、一粒の米を四割も五割も、ときには六割以上も削ってしまう吟醸造り

三を支えるのは、つむぎ続けた伝統の技

四を支えるのは、新潟の厳しい寒さ

ただただ同じ事を繰り返すだけでなく、越後の良酒を醸すために積み重ねられた努力

「酒造りひとすじ~その先に美酒あり~」

吉乃川株式会社の理念は、まさに吟醸造りの真髄そのものではないだろうか

目指せ100年企業!第二十六回「吉乃川株式会社」

http://www.yosinogawa.co.jp/

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創業:西暦1532年、北国街道の桑酒「山路酒造有限会社」

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第二十五回「山路酒造有限会社」創業:天文元年(西暦1532年)

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「後園の桑を用いて酒をつくれ」との夢のお告げによって作られたと言われる桑酒

甘さと香ばしさが、皆に喜ばれる中で、山路酒造が創業したのが天文元年(西暦1532年)

その地は、北陸と近畿を結ぶ陸路となる北国街道に面し、文化や産物の行き交う一つの絹の道

湖北の町は、絹糸の産地で養蚕が盛んであった為、北国街道沿い一面には桑畑が広がる一方、

木之本地蔵院の門前町となる木之本宿は、人々の往来も繁く宿場町として長きに渡り栄えていました

桑酒は、桑の葉を使った蒸留酒で、もち米と麹と桑の葉を、独特の方法で焼酎に漬け込み、伝統みりん製法によって造られる

慶長年間に、この地で倒れた旅人が桑酒を呑み、木之本地蔵院に詣でたところ元気を取り戻したという伝えがあり、疲労回復、滋養強壮の効用が評判を呼んだと言われています

大正14年(西暦1925年)には、詩人、島崎藤村が自筆している注文書が残っており、広くその名を知らしめていたことが伺えます

また、清い水と極寒の土地で仕込んだ杜氏の意気込みが感じられる清酒、北国街道

愛されるお酒を造るため杜氏と共にきめ細やかに、大切に仕込む日本で五番目に古い酒蔵

年毎に少しずつ変わる酒の味を蔵元の醍醐味として、これからも多くの人を楽しませて頂きたい次第です

目指せ100年企業!第二十五回「山路酒造有限会社」

http://www.hokkokukaidou.com/

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