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自己紹介から考える価値向上【前編】〜 Self‐introduction for Branding Vol.1〜

大寒を過ぎ、気温の低い日が続いていますが、体調管理は万全ですか?
年始よりインフルエンザも猛威を奮っていますので、くれぐれもご自愛ください。

今回は、『自己紹介から考える価値向上【前編】〜Self‐introduction for Branding Vol.1〜』です。

わかるようでわからない抽象的なお題ですので、少しずつ噛み砕いていきます。

まず、経営者の貴方にご質問です。

『御社では、企業理念・経営理念を作成し、社内で共有されていますか?』

この質問に対して、

『いいえ』と答えられた経営者の貴方は、下記の①よりお進み下さい。
『はい』と答えられた経営者の貴方は、下記の④よりお進み下さい。

まず、表題について考案するにあたり、下記の六段階から落とし込んでみるとしよう。

①企業理念等の作成
②企業理念等の共有
③事業概要の作成
④営業資料の作成
⑤紹介文例の作成
⑥名刺の作成

①企業理念等の作成

『企業理念』とは、企業や組織の目的や存在意義を端的にまとめたもので、大前提として生活総研では下記のように定義づけている。

・企業理念⇒企業の目的や存在意義で、最も大切にする根本的な考え方
・経営理念⇒経営を行う上で、最も大切にする根本的な考え方
・社是・社訓⇒企業の行動規範を示し、企業倫理の根幹となる考え方
・展望⇒企業の将来における構想や未来像(ビジョン)
・使命⇒企業の果たすべき役割(ミッション)
※経営理念を基本理念・行動理念・企業理念の三部構成とする考え方もある。

では、なぜ企業理念等が必要なのかについて触れておくことにしよう。

例えば、家族旅行を計画したとしよう、その時、貴方はミステリーツアーでもない限り、日程や行き先、宿泊先などさまざまな工程について吟味されるのが、一般的であろう。
その計画は、短ければ日帰りかもしれない、長ければ数日や数週間に渡るかもしれないが、いずれにしろおおよその工程を事前に計画決定しているだろう。

企業経営を、この家族旅行に置き換えるとどうだろうか?最終日の設定をせず長期に渡る計画となる企業経営において、工程について何も設定せずに始動することに、違和感はないのだろうか?

つまり事業を開始するにあたり、企業規模の大小に拘らず、企業経営において『企業理念等』の作成は必須要件のひとつであることをご理解いただけただろうか。

 

②企業理念等の共有

紆余曲折を経て、作成した企業理念等だが、もちろんこれは後生大事に箪笥の奥へしまっておくものではない。
当然に作成した経営者である貴方が、手帳や買いたり額縁に入れて掲示するなど、常に肌身離さず身辺に携帯しておくべきだろう。
そして、もう一つ重要なのは企業内における社員全員で共有することである。

先述の家族旅行の例を思い出して欲しい。社員旅行に向かう際に、日程(期間)や行き先(目的)などの工程(計画)を知らずして社員がまとまって、行動するのは不可能とは言わないが、決して賢明な選択とはいえない。

つまり、企業理念等は、経営者だけでなく社員全員とも共有しなければならないのである。

 

③事業概要の作成

そして、経営者と社員全員が企業理念等を共有し、事業概要を作成することが容易となっていることにお気付きだろうか。

というのは、5W2H「いつ(When)、どこで(Where)、だれが(Who)、なにを(What)、なぜ(Why)、どのように(How)、どのくらい(How much)」の7つの要素をまとめるに当たり、そのキーワードが既に明確になっているからである。

つまり、企業理念等から事業概要については、常に一貫性を伴っていなければならないということになる。

この文末までお付合いいただいた経営者の貴方、現状に経営課題を抱えておられるのであれば、今一度、上記を実施してみてはいかがだろうか。

 

『自己紹介から考える価値向上【後編】〜Self‐introduction for Branding Vol.2〜』へつづく


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【アベノミクスは大成功】

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2014年11月18日の午前

日本に、衝撃が走りました。

多くの人々がプラス成長と予想していた

GDP速報値が、一転してマイナス1.6%

 

この報道を耳にして、分かれる反応

その①→これはまずい

その②→よくわからない

その③→関係ない

さて、このブログの読者は上記①〜③のどれに当てはまるだろう?(質問1)

 

そして、この発表を耳にするや否や

アベノミクス失敗の報道を加速させるマスコミ

果たしてアベノミクスは本当に失敗なのだろうか?(質問2)

 

表題にも記した通り、わたくし個人にとって

アベノミクス(2012.11〜)は大成功である。

しかしその恩恵の極々一部を享受したに過ぎない。

そして再びここで問う、

あなたはアベノミクスの恩恵を享受しましたか?(質問3)

 

では、ここで本題に入るとしよう。

わかりやすい指標として、

2012年11月1日と

2013年11月1日と

2014年11月1日を

比べてみたのが下記である。

 

■政策金利
一昨年:0.10%
昨年:0.10%
今年:0.10%

■日経平均株価
一昨年:8,946.87円
昨年:14201.57円
今年:16,862.47円

■為替(TTS)
一昨年:80.90円
昨年:99.23円
今年:114.76円

 

個別の施策はさておき、ご覧のとおり

この730日で日本の経済情勢は激変している

そして、さまざまな経済アナリストは言った

『株価が上がれば景気は良くなる』

 

実に、アベノミクスが発令された2012年11月

を振り返れば、日経平均株価がおよそ倍になっている。

にもかかわらず現実的に、国民のその多くが

景気の上昇を体感するどころか、

その極一部すら享受されていない。

 

ところが、この享受されない恩恵の

責任所在はどこにあるのだろうか?

安倍政権?

企業?

国民?

 

この責任の全てを安倍政権に求める

のはあまりにも無責任である。

日本の経済成長は平成初期のバブル期

以前に既にピークを迎えている。

 

つまりそれ以降は下降線を辿っているのである。

となれば政権主導で出来ることは、

景気回復ではなく、景気後退の遅延ともいえる。

 

そしてその過程において企業や国民が

これまでに経験したことのない

新しいこの時流に見合った

変化や進化をしなければならない

のではないだろうか。

 

文頭でお尋ねした質問

(質問1)→①と答えた方、抜本的な変化・進化が必要です。

(質問2)→失敗と答えた方、成功と答える方を観察してください。

(質問3)→いいえと答えた方、はいと答える方を観察してください。

 

そうつまり、企業が、国民が変わらなければならない

すでにそんな局面を迎えていると同時に、

すでにそんな局面に順応している企業や国民が

居ることに少しでも早く気づかなければなりません。

 

資本主義経済において、保障されているのは、

自由は競争であって、未来永劫の安全ではありません。

 

これまでは先人が培った経済基盤の

恩恵で多くの方が不自由なく生きてきました。

しかしながら今後はこれまで以上に

二極化が進むと同時に労働集約層を

中心に低所得者が増加します。

 

少なくとも

東京オリンピック開催までの間

株価は上昇します

円安は進行します

インフレは加速します

所得はインフレ内で上昇します

結果、ますます家計は厳しくなります

 

国内消費は伸び悩みます

企業の業績は伸び悩みます

失業率は上昇します

結果、ますます税収は減少します

 

これからの50年は

これまでの50年の繰返しでは

乗り越えることが出来ません。

 

では、何をすべきか?

その解決策の1つが外国人です。

円安の進行は、外国人を日本へ招きます。

もしくは日本製品の輸出が容易になります。

つまり、国内で埋めることが出来なくなった

消費を補ってもらわなくてはなりません。

 

いまある業態を変化させることが困難であっても

消費者を外国人にすることは不可能ですか?

 

解散総選挙を控え、ある意味思惑どおりに

進んでいるアベノミクス

大成功と捉えるか?

大失敗と捉えるか?

その答えは、

その恩恵を多いに享受する人々がいる以上

 

貴方次第

 

つまり

自己責任

であることをご留意いただきたい。

【投資と消費】

先日、ツイッターでご紹介した支出の種類

ありとあらゆる支出があるものの、その実態は2種類しか存在しない。

それが、

『投資』

『消費』

のたった2種類しかない。

通勤の切符代は、会社で働くための投資?それとも消費?
昼食代は、健康を維持するための投資?それとも消費?
夕刊代は、世間を情勢を知るための投資?それとも消費?
交際費は、来るべき未来の取引への投資?それとも消費?

真の投資もあれば、偽の投資もあり、

真の消費もあれば、偽の投資もある

本来、消費であっても、意識することで投資に変容させたり

逆に、投資であっても、意識をしないことで消費に変容させることが可能となる。

では、この概念と意識を経営者目線で考えた場合、どうなるだろうか?

社員に支払う給料は、投資?それとも消費?

もちろんこの場合であっても、表裏一体となる。

労働対価に対する消費と捉えた場合と、

生産的な未来への投資と捉えた場合で、

社員が、どのように感じ、どのように育つか?
この2点を考えただけでも、その差は歴然である。

一方は、道具として扱われていると感じ

一方は、人間として扱われていると感じるだろう

すべての支出を、投資にすることは決して容易なことではないが、
すべての支出に、投資的な要件を付加することは難しくない。

そして、この意識の反復継続がいずれ迎える未来に、
大きな差異をもたらし、しいては

事業継承の可否に大きな影響をもたらす大きな要因の1つとなる。

日々存在する支出の1つ1つと

向かい合い、

見つめ直すことを、

今一度、取り組んでみてはいかがだろうか?

  • 2014年9月8日
  • By LRI-Magazine
  • 【一流が一流であるために】 はコメントを受け付けていません
  • in FP・コンサル

【一流が一流であるために】

当時、中学生だった私にとって、存在そのものが眩しかった、その人

1984/2/1に『モニカ』で鮮烈なデビューを果たした当時18歳だった吉川晃司さん

イベント関係者からのお声掛けで2014/8/24にオリックス劇場で行われた『30th Anniversary LIVE』にお邪魔してきたのだが・・

ライブが始まるや否や、自分の目を疑ったのはそのステージでのパフォーマンス

もちろん、第一線で活躍されているので間違っても退化しているはずはないのだが

想像を遥かに超えるパフォーマンスに加え、内臓の奥底にまで届く歌声

冒頭にもお伝えしたがデビュー30週年、つまり18才+30年、そう御年49歳

このライブクオリティは、49才の年齢を一切感じさせないどころか

むしろ、中学生だった私たちの心を鷲掴みにした、荒削りな若かりし頃より、

進化している!?

お声掛けいただいた方から、その理由のうち2つを伺うことが出来た

①毎日のウォーキング10km

②喉を傷めない発生方法の習得

学生時代からアスリートであったことは有名な話だが、

デビューしたあの日以降も継続されているのが、この強靭な身体を維持するトレーニング

ウォーキング途中に、どこにでもあるような公園にふと立ち寄り、

鉄棒やベンチを使い、懸垂や腕立てなどで筋肉に高負荷を掛ける日常

そして今回の『30th Anniversary LIVE』は、これまでに発売された

49曲のシングルを2日間で歌う過酷なライブ

体力的な負担は、もちろんだが喉のへの負担は計り知れないものがある

にも拘らず、2日目だった当日は最初から最後まで変わらぬ歌声

むしろ、調子が上がったのではないかとも思える歌声を披露していた

さらに、ライブの代名詞ともいえる『シンバルキック』

高身長の吉川晃司さんの頭上数十cmにあるシンバルをキック

中座前と終了前にこのパフォーマンスも余裕で披露している

『一流が一流であるために』

天才が誰も真似出来ないことを極める

そして、

凡才が誰も真似出来ないくらいまで極める

決して吉川晃司さんが凡才だとは思わないが、

誰もが『一流』になれる可能性を秘めている

と改めて確信した1日だったことをここに遺し

事業経営に必要な姿勢とリンクさせてみる。

創業:西暦1560年代、せき女の真心「おせきもち」

目指せ100年企業!老舗企業・長寿企業の秘訣を企業理念から学ぶ、企業理念研究所

第五十回「おせきもち」創業:永禄年間(西暦1560年代)

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鴨川と桂川が合流する低湿地帯となる鳥羽に、羅生門と淀を結ぶ鳥羽街道といわれる街道がある

時代は江戸時代に遡り、この街道にて、茶屋を設け餅を編笠の裏にならべて、道行く人に食べさせており

その娘の名が『せき女』であり、真心を込めて作った餅で、旅人を慰め労ったことで大評判となったといわれている

 

これが、『おせき餅』と名をとどめ、創業450年といわれる『おせきもち』となります

慶応4年(西暦1868年)には、新政府軍と幕府軍との間での衝突によって、起こった鳥羽・伏見の戦いが

 

鳥羽街道の小枝橋付近だったことから、この辺り一帯は戦いの場となり、民家が焼き払われる中で

おせきもちも例外なく、お店を焼失しているが、新撰組の近藤勇なども立ち寄り舌鼓をうったおせきもちは

昭和7年(西暦1932年)に、京阪国道の敷設とともに現在の地にて、その味とおもてなしを受け継いでいる

 

方除で有名な城南宮へ立ち寄った際はもとより、京都南インター南すぐの立地を通る際は、一度はお立ち寄り頂き

白い餅の上に粒あんを載せた素朴な菓子に込められた『せき女』の真心が伝わるおもてなし感じて頂きたい

目指せ100年企業!第五十回「おせきもち」

http://osekimochi.jp/

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創業:西暦1560年、御鋳物師からの成長「鍋屋バイテック株式会社」

目指せ100年企業!老舗企業・長寿企業の秘訣を企業理念から学ぶ、企業理念研究所

第四十九回「鍋屋バイテック株式会社」創業:永禄3年(西暦1560年)

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永禄3年(西暦1560年)、織田信長が桶狭間の戦いに勝利し、新しい英雄として歴史の表舞台に登場した

同年、織田信長の家臣で後に信孝に仕えた岡本太郎右衛門尉が岐阜市金屋町1丁目にて鋳造業を始めたのが創業となる

寛延2年(西暦1749年)、岡本太右衛門が朝廷より御鋳物師免状を授かり、京都御所へ灯篭を献上した際に「鍋屋」の称号を与えらる

高度な知識と技術を身につけ、鍋、釜、燈籠、鐘などの鋳物をつくり公認の匠の屋号となった「鍋屋」は、茶釜を千利休に納めている

昭和15年(西暦1940年)、電動機器メーカーとして、鍋屋工業株式会社を設立

 

 

昭和47年(西暦1972年)、近代化に乗り遅れ業態変換と直面していた伝統企業は、商社に務めていた前社長:岡本太一氏に経営を託した

老舗の考えを一新させる経営方針を打ち出す一方で、老舗の技術を最大限に活かす鋳物職人の匠の技をハイテク部品の開発に融合させ、"伝統"と"最先端"の共存による新たな市場が構築された

平成13年(西暦2001年)、現在の鍋屋バイテック株式会社へと社名変更し

平成19年(西暦2007年)、岡本太一氏が代表権のない会長に退き、創業来はじめてとなる岡本家以外からの代表取締役 金田光雄氏が誕生した

創業から450年を超える老舗企業だが、比類なき水準で常に新しいことに取り組む姿勢は、大きな特徴だといえる

「寿司バーコンセプト」と名付けられた多品種微量の生産体制もそのひとつで、1個単位の少量から受注し、すし職人のように素早く対応し14時までの注文については当日出荷も実現させている

時代にあわせながら幾度となく自社商品を変えてきた鍋屋バイテック株式会社

多品種少量ではなく多品種微量

「顧客志向」

「自然環境との共生」

「地域社会への貢献」

を企業理念に掲げ、歴史と伝統を共存させながら、未踏の企業像を具現化して頂きたい次第です

目指せ100年企業!第四十九回「鍋屋バイテック株式会社」

http://www.nbk1560.com/

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創業:西暦1550年、勢州日永の地「株式会社なが餅笹井屋」

目指せ100年企業!老舗企業・長寿企業の秘訣を企業理念から学ぶ、企業理念研究所

第四十八回「株式会社なが餅笹井屋」創業:天文19年(西暦1550年)

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天文19年(西暦1550年)、時は戦国時代へと遡る

勢州日永の里にて初代彦兵衛が、街道をにぎわす評判の銘菓を販売していました

その銘菓は、勢州日永の地にちなんで「永餅」と呼ばれていた

三十六万石の太守であった藤堂高虎公も足軽の頃、永餅の美味に感動し、武運のながき餅を食うは幸先よしと大いに喜んだと伝えられている

さらりとした小豆餡を、白い搗き餅でくるんで、平たく長くのばし、両面を焼き上げる「永餅」

日永の餅、長餅、笹餅、牛の舌などと名を変えながら、今日の「なが餅へと至っている

レスリングの吉田沙保里さんが、テレビ番組で試合前に食べている「なが餅」を紹介したことでも有名な三重県四日市市の名物

創業以来、頑なに守り続けた伝統の味であるなが餅一筋に歩んだ老舗のこだわり

その精神は創業当初にまで遡る

若かりし藤堂高虎公と落合孫作が津の海岸で談合した将来の夢を、後年に叶えた高虎公が孫作を家老に迎えた友情に由来する

初代彦兵衛の想いが受け継がれる、四日市名物永餅「なが餅笹井屋」、戦国武人の友情を味わってみてはいかがだろうか?

目指せ100年企業!第四十七回「株式会社美濃屋吉兵衛商店」

http://www.nagamochi.co.jp/

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創業:西暦1550年頃、元祖糀入りいかの塩辛「株式会社美濃屋吉兵衛商店」

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第四十七回「株式会社美濃屋吉兵衛商店」創業:天文19年頃(西暦1550年頃)

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近江地方の豪族浅井家の一族であったと伝えられている「みのや吉兵衛」の元祖、初代吉兵衛が

琵琶湖の東一円に勢力を張っていた浅井一族の一人で、織田信長に敗れ去った際に近江から美濃へ移ったが

美濃もまた戦乱の迎えており外郎家をたよりに、平和に繁栄していた小田原に来住し天文19年頃(西暦1550年頃)に創業した

東海道五拾三次の宿場として栄えた小田原宿、その名物のひとつに挙げられる「みのや吉兵衛」の「いかの塩から」「梅干」

大漁となったイカを5代目吉兵衛が買い上げ、保存食して塩漬けにしたがたべられる味ではなく

途方に暮れていたところ、糀を入れたところ見事に発酵し、名物「糀入りいかの塩から」の誕生となった

明治時代には、御用達となり、昭和57年(西暦1982年)には、皇室献上品に選ばれた

「かまぼこ美濃」

「いかの塩から」

「梅干」

は、現在も献上されている

東海道小田原宿の中で、最もにぎやかだった筋違橋町にあった「みのや吉兵衛」、当時の掲げられていた看板が4枚現存している

その一つに、

「掛売りいたしませぬ」

がある

「みのや吉兵衛」に伝わる口上書きの一つで、掛売りを断る旨を明記しつつも

主人の判断によるとした上で、毎月返済は原則とする、但書きが続いている

また、伝統の味の継承と新たなビジネスにチャレンジし、併せて地域社会に貢献していく事を使命とし

「融合の実践」

「全てに前傾姿勢」

を掲げてる株式会社美濃屋吉兵衛商店

武士から商人への生業を得た小田原の地で、これからも伝統の技を継承し、旅人をもてなして頂きたい次第である

目指せ100年企業!第四十七回「株式会社美濃屋吉兵衛商店」

http://www.minoya450.co.jp/

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創業:西暦1546年、伊達家の御殿湯「株式会社不忘閣」

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第四十六回「株式会社不忘閣」創業:天文15年(西暦1546年)

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享禄元年(西暦1528年)に、佐藤彦惣がアオヌキの木の下から源泉が湧き出ているのを発見し開湯した青根温泉

天文15年(西暦1546年)に設けられた湯宿が湯元不忘閣の創業とされている

慶長17年(西暦1612年)、佐藤家は仙台藩主伊達家より青根温泉の湯別当を仰せつかり御殿湯を設置

その後、代々藩主の保養所守りの役と関守りの役を兼ねる不忘閣

 

明治時代以降は、高浜虚子、与謝野鉄幹晶子夫妻、川端康成、芥川龍之介、山本周五郎などの文人が宿泊し、この地を作品の一部となって残されている

青根御殿は明治37年(西暦1904年)に消失するも、昭和7年(西暦1932年)に18代佐藤仁右衛門により当時のまま総檜造りで再建されている

また、共同浴場として利用されていた大湯も平成18年(西暦2006年)に一旦廃止されたが、平成20年(西暦2008年)に不忘閣の内湯として再開している

老朽化が著しかった大湯の建物は管理が川崎町であった為、近代的な施設を新築し運営することとなったが、歴史ある大湯の閉鎖に惜しまれる声が寄せられた

歴史ある大湯の再建に乗り出したのは不忘閣21代湯守の佐藤仁右衛門さん

「大湯は全国のメジャーなブランド。後世に残すことを第一に考えた。採算は度外視です」

土地を町から借上げ、釘を使わず、木材はすべて青森ヒバ、壁には温泉でこねた土塗、で仕上げた建物

重厚な石組みによる石風呂は、藩主伊達家を癒した石湯を忠実に再現したもの

青根の湯守の宿命を、脈々と受け継ぐ

「永々湯主 佐藤仁右衛門」

「代々この温泉の湯を守ってくれ」

と、初代佐藤仁右衛門が伊達政宗公から受けたと伝えられる言葉は、これまでと同様にこれからも守り続けられるのだろう

目指せ100年企業!第四十六回「株式会社不忘閣」

http://www.fubokaku.com/

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創業:西暦1540年、長野最古の蔵元「株式会社酒千蔵野」

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第四十五回「株式会社酒千蔵野」創業:天文9年(西暦1540年)

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稲作が盛んで、余った年貢米を醸して村の人々に振舞ういわゆる百姓酒屋として、天文9年(西暦1540年)に酒千蔵野は創業している

甲斐国の武田信玄公と越後国の上杉謙信公との間で、北信濃の支配権を巡り争われた12年にも及ぶ川中島の戦い

最も激戦となったのが、この地、川中島地区であったことから川中島の戦いと呼ばれる

この戦いの最中に、武田信玄公が千野の酒を召し上がられたと伝えられている

酒の味わいに大きく影響する水の良し悪し、千野の歴史を支える仕込み水は、千曲川と犀川の豊かな伏流水が蔵内の井戸から汲み上げられる

また、千曲川と犀川に挟まれた三角州である川中島地区は古くから灌漑され二毛作も可能な肥沃な地は酒造りには最適な環境であった

明和2年(西暦1765年)、千野多右ヱ門氏が旧酒蔵を建立し、15石の木桶を12本導入した

この頃より、杜氏を中心とした蔵人により、冬場のみの酒造りに移行したと記されている

昭和38年(西暦1963年)、有限会社千野酒造場が設立され、数々の賞を受けていていたが、

平成10年(西暦1998年)に開催される長野冬季五輪の準備により、敷地内が道路用地となり、平成7年(西暦1997年)に新酒蔵が建立された

平成12年(西暦2000年)には、蔵元の一人娘である千野麻里子さんが、蔵元の体調不良により予定より2年早く杜氏へ就任し

平成19年(西暦2007年)に、株式会社酒千蔵野に商号変更し現在に至っている

長野県では初めてとなる女性杜氏の経歴は

東京農業大学醸造学科で学んだ後に、国税局醸造試験場で2年間の研修を経て、有限会社千野酒造場に入社し、8年の杜氏修行

「お酒達ちには個性があるんです。素直でいい子もいれば、手のかかるヤンチャな子もいる。毎日その表情を変えるんですね。私は学校の先生のような存在かもしれません。みんなの良いところを引き出し、悪いところを直すように導いて行くんです」

と仰る麻里子杜氏

国内での日本酒の消費が低迷する中で、効率を重視し生産量を求めることをせず、日本の醸造技術を世界に誇れる日本の文化と信じ

「心で醸す酒」

「心が感じる酒」

に拘る心の酒造りをする株式会社酒千蔵野の理念は、

地元に根ざした造り酒屋
地域の人たちが集う蔵元、
フレッシュな酒が運ぶ華やかな空間

地域の皆様に愛される蔵元へ、
信州の歴史と文化の承継
誇るべき日本文化の発信を世界へ

自然の恵みと対話しながら、醸し出される酒千蔵野の酒は、まさに伝統技術と最先端の芸術作品といえます

川中島で培った歴史と新たな技術を融合し、受け継がれた文化をこれからも守り、そして攻め続けて頂きたい次第です

目指せ100年企業!第四十五回「株式会社酒千蔵野」

http://www.shusen.jp/

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