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創業:西暦1520年代、御所御用の「株式会社虎屋」

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第二十四回「株式会社虎屋」創業:大永年間~享禄2年(西暦1520年代)

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遡ること室町時代後期の西暦1520年代、場所は京都御所を東に望む一条通、菓子屋として創業したのが虎屋

はっきりした文献はないが、後陽成天皇の御在位中となる天奨14年(西暦1586年)に御所御用の命を受け

慶長5年(西暦1600年)、関ヶ原の戦いで敗れ、京都に隠れ潜んでいた犬山城主、石川備前守貞清をかくまったのが、黒川円仲氏であり中興の祖としている

寛永12年 (西暦1635年)、明正天皇が御所に行幸された時に、注文されたお菓子を書き留めた『院御所様行幸之御菓子通』には、羊羹や饅頭などと記され

元禄8年 (西暦1695年)、作成された 『御菓子之畫圖』は最古の菓子見本帳として現存しており、当時の商品を知る貴重な手掛かりとなっている

徳川家の統治による江戸時代となっても、5代将軍徳川綱吉や8代将軍徳川吉宗へ、京都からはるか遠い江戸へ菓子を献上する記録が残されている

そして迎えた、明治2年 (西暦1869年)、明治天皇の東京遷都とともに東京へ派遣し御所御用を受け続け、東京と京都での営業を今日まで続けている

代々黒川家が受け継ぐ虎屋、文化2年(西暦1805年)に9代当主黒川光利氏が策定した「掟書」が文献として残っている

内容は、天正年間(西暦1573~1592年)につくられていた店員が守るべき基本的な考え方を書き改めたもので15ヶ条からなっており、

「倹約を第一に心がけ、良い提案があれば各自文書にして提案すること」

「お客様が世間の噂話をしても、こちらからはしない。また、子供や女性のお使いであっても、丁寧に応対して冗談は言わぬこと」

などと、家訓のない黒川家にとっての同様の意をなす書となっているのではないだろうか

また、株式会社虎屋の経営理念は、

「おいしい和菓子を喜んで召し上がって頂く」

そして当代17代目当主黒川光博社長の言葉

「伝統は革新の連続である」

昭和55年(西暦1980年)、パリに出店を果たした株式会社虎屋

これからも、伝統継承と革新経営で、和菓子を世に送り出して頂きたい

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創業500年以上の企業一覧|老舗企業・長寿企業の秘訣を企業理念から学ぶ、企業理念研究所

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創業:西暦1505年頃、最古の銘柄「剣菱酒造株式会社」

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第二十三回「剣菱酒造株式会社」創業:永正2年頃(西暦1505年頃)

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稲寺屋伝により、永正2年(西暦1505年)には既に伊丹にて醸造が始まっていた「剣菱」

創業者の名は稲寺屋治郎三郎、

剣菱の酒標は、

天地陰陽夫婦和合の象にて生々たるその瑞気を感じ精気の回天を為すと、

後の醸主坂上桐蔭の時、井戸より不動明王の尊体顕れ瑞喜し、降魔の剣身と鍔形を酒標とすと、

双方ともに強い精力にちなんだ由来が特徴のひとつでもある

また、伊丹酒は下り酒として江戸へ運ばれる一方、

頼山陽が「兵は用ふべし、酒は飲むべし」と絶賛し
名産地池田伊丹が、近衛家の領地でしたので、「近衛家御用」となり
近衛関白が皇室へ献上し
藤田東湖が「傾来一斗剣菱春」と詠み、幕末の勤皇の志士たちが好んで飲む

など数々の逸話が伝わる中、

特にその名を広めたのが、忠臣蔵の大石内蔵助が率いる赤穂四十七士が討ち入り前に、江戸両国橋際蕎麦屋彌助宅の2階にて出陣の祝酒に剣菱で杯を交わした伝えとなります

長い歴史の中で、津国屋勘三郎から始まり数度に渡り蔵が変わり紆余曲折するも、昭和4年(西暦1929年)に5家目となる現在の白樫家による剣菱酒造株式会社となり伊丹より神戸市東灘区へと移っている

現在も5万石にものぼる生産は、ほとんど機械が皆無に等しい手造り

さらに、晩秋から仕込みを始め、春先から秋まで寝かせる「寒造り」と呼ばれる伝統的な山廃仕込み

先述の江戸後期の文人、頼山陽に『質実であれば変動せず、変動しなければ永続する』と言わる由縁となります

剣菱酒造株式会社の家訓は、

「宣伝や販売にお金を使うのではなく、さらに良いお酒を造ることに出た利益を使うこと」

愚直に酒造りに励めば、銘柄は保たれ、輝きは増す

今も昔も変わらない古今第一の味「剣菱」

歴史的背景や懇切丁寧な製造工程を知った上で、口にする剣菱の味はこれまでと違った趣を見せてくれるのではないだろうか?

神戸は灘の宮水がもたらす最古の銘柄「剣菱」

是非一度、ご賞味いただきたい

目指せ100年企業!第二十三回「剣菱酒造株式会社」

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創業:西暦1487年、廻船問屋の酒「株式会社飛良泉本舗」

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第二十二回「株式会社飛良泉本舗」創業:長享元年(西暦1487年)

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秋田県にかほ市にある平沢漁港からほど近い場所に、東北で最も古い歴史を持つ酒蔵がある

時は長享元年(西暦1487年)、八代将軍、足利義政が京都の東山に銀閣寺を建立した年

泉州地方にある廻船問屋を営む斉藤家の分家として、初代、斎藤市兵衛氏がこの地に移り住み稲作をする傍らで酒造りを営む「和泉屋」を創業した

宝暦年間から天保年間を生きた名僧、良寛和尚の友人で、仁賀保に暮らしていた増田九木氏という画家が、良寛和尚へ宛てた手紙にトンチのきいた名言を書き残している

「飛び切り良い、白い水」

平沢の「ひら」にかけ「飛」と「良」を並べ、「白」と「水」は上下に並べると泉州の「泉」

それまでの「金亀」の酒銘から、現在の酒銘「飛良泉」が誕生した由縁となります

その後、明治初期には鉄道の発展とともに廻船業が衰退し、徐々に酒造りに専念する流れとなり

22代目当主、斉藤市兵衛氏は、屋号を「斎藤酒造店」を名乗っていました

現在の本蔵は明治15年(西暦1882年)に建造されたもので、隆々とたる大欅は創業当時から蔵を守り続けている

昭和39年(西暦1964年)6月16日、新潟県の粟島南方沖を震源とするM7.5の「新潟地震」は、斎藤酒造店にとって創業来最大の危機をもたらした

当時の25代目当主、斉藤昭一郎氏、背水の陣で挑んだ再建であったが、伝統の山廃仕込一筋での勝負

再創業まで2年、経営回復まで15年を費やし、見事、暖簾を守り抜き、昭和43年(西暦1968年)に、株式会社飛良泉本舗に改組して今に至っている

伝統の造りは山廃仕込み、正式には山卸廃止仕込みといい、昔ながらの酒母製造方法である

そしてこの仕込みを支えるのが、仕込水

鳥海山系伏流水の硬水であり、水に力があり、思うような麹で山廃が造りやすいという杜氏

壊滅的な危機を乗り越えて、受け継がれた伝統の山卸廃止仕込みと仕込水

この拘りを貫き続ける株式会社飛良泉本舗の理念、それは

「派手な桜の花よりも、地味ながらふくらみのある梅の花のような酒をつくりたい」

伝統の技と心を受け継ぐ職人の手によって大切に大切に造り出される

「飛び切り良い、白い水」

 を搾り出して頂きたい、そう願わずにおれません

目指せ100年企業!第二十二回「株式会社飛良泉本舗」

http://www.hiraizumi.co.jp/

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創業:西暦1465年、御用蕎麦司「株式会社本家尾張屋」

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第二十一回「株式会社本家尾張屋」創業:寛正6年(西暦1465年)

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「やんごとなき御方より召されて、山鳥の尾張の国より都にまいりしは、室町時代花の御所の時なり」

と家譜に伝わる本家尾張屋が菓子司として創業したのが、応仁の乱の前々年となる寛正6年(西暦1465年)

13世紀には、僧侶を介して宋から伝わっていたとされる蕎麦を粉にして練る技術

寺で蕎麦を打つのが間に合わなかった際に、粉と水を練って伸ばして切る菓子司に依頼が入るようになりました

こうした中で、そば処としても、京の町衆に親しまれるようになった尾張屋は、元禄15年(西暦1702年)に初代傳左衛門を名乗り蕎麦司へと転業しました

江戸時代後半には御所に出入りを許された御用司をつとめ、明治時代には宮内庁御用達をつとめている

平成6年に15代目当主となった稲岡傳左衛門社長は、先代でもある父親から次の言葉を残されていました

「お客様の信用が第一。祇園で悪い噂が立てば尾張屋はつぶれる」

京都タカシマヤが改装をした際に、これまでの井戸水が水道水との混合になることで、撤退を検討していたが井戸水のみを汲み上げることで合意し存続となっています

京都の地下水は硬度が低い軟水でなければ、出汁の良い味が出せない拘りを貫く15代目当主

平成22年(西暦2010年)には、16代目当主となる稲岡亜里子さんが写真家としての活動と並行しつつ取締役に就任し家業に携わっている

このような、株式会社本家尾張屋に伝わるのは12代~13代当主が遺した「口上」

やんごとなき御方より召されて、山鳥の尾張の国より都にまいりしは、室町時代花の御所の時なりと家譜に伝え候

思えば五百有余年連麺と相続到し来り候儀、偏に厚顧の賜物、御礼は麺棒にも打のべ難く存じ候

されば方今の文化は当業にまで及び、兎角多産を旨として昔の香を失い候

おりから、茲許は只管原料の吟味手打、手挽の味本位、古風を守りて永年の御引立に可奉答存居候旧習に因みて祖先時代の蕎麦菓子を遺法に基きて謹製致し候次第に有之諺にも、

おそばを召せば、御宝が集ると申候えば、処がら車屋町、召せば廻りも殊更によく、福は御宅へ押寄せ候ぞかし、さて其御福分けは、根が寡産主義の旧習家、扱い物の細長く繰返し繰返し幾久しく、御用命の程乍此上伏して奉願上候

15代目当主、稲岡傳左衛門社長の言葉「古きを知りて、新しきを創る」を想いつつ、暖簾の向こうの蕎麦の香りに引き寄せられてみてはいかがでしょうか?

目指せ100年企業!第二十一回「株式会社本家尾張屋」

http://www.honke-owariya.co.jp/

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創業:西暦1428年、佐久鯉発祥の宿「株式会社佐久ホテル」

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第二十回「株式会社佐久ホテル」創業:正長元年(西暦1428年)

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一面が葦で覆われた湿地帯で大量の積石による地盤改良を必要とした岩村田

この地に、大井家に客将として招かれた、紀伊国造三十八代末裔で望月城の望月河内守滋野朝臣光尚

望月河内守が領主として宿泊や料理を岩村田で供したのが正長元年(西暦1428年)

これが、佐久ホテルの創業であり、初代当主の誕生となります

寛正4年(西暦1463年)の、後花園天皇御勅使御接待を始めとし、武田信玄などの名だたる武将や皇族などを長きに渡り御接待している

慶安元年(西暦1648年)10月19日夜に、小諸藩主青山因幡守宗俊公に篠澤佐五衛門良重が鯉料理を献上し、この史実が佐久鯉発祥の宿と呼ばれる所以となっている

江戸時代から明治初期には、代官や郡代に次ぐ役職で武士と同格となる、中山道岩村田宿の最後の割本として、大名などの心と体を癒し場を提供する職を全うし

明治18年(西暦1856年)、宮内省の命を受け明治天皇の専用室を建設「佐久ホテル」と命名し、16代当主、篠澤佐太郎により改組し現在の法人組織となっている

このような歴史を歩んだ佐久ホテルには、15代当主、篠澤豊太郎が書いた「子孫二申シ残ス事」が家訓として残されています

「子孫たる者、流行の事業に必ず手を出すべからず、自分一時百万円の財産を利根川の汽船会社に投資。前家の源兵衛と同様大破産したる事ありゆえに、馴れさる事業は無理して手を出すべからず。」

この家訓は、最後の割本でもあった15代当主が、蒸気船に投資し大変な損害を被ったことを後世に伝え遺した言葉です

「本業一筋」

佐久鯉発祥の宿として、重く深い伝統とおもてなしで、いつまでも迎えて頂きたいところです

目指せ100年企業!第二十回「株式会社佐久ホテル」

http://www.sakusaku.co.jp/

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創業:西暦1349年、饅頭の元祖「合資会社塩瀬総本家」

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第十九回「合資会社塩瀬総本家」創業:貞和5年(西暦1349年)

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宋の詩人、林和靖の末葉である林浄因が中国から奈良に移り住み、餡入りの饅頭を作り売り出したのが貞和5年(西暦1349年)

これが、日本で初めての饅頭、つまり饅頭の歴史の始まりであり、塩瀬の歴史の始まりとなります

当時、禅宗寺院は上流階級の社交場としても使われており、肉食が許されない僧侶にとって、餡を皮に包んで蒸し上げた甘味は大評判となりました

寛正元年(西暦1460年)、四代惟天盛祐が京都に移ったことにより、奈良の南家と京都の北家とに別れ

応仁元年(西暦1467年)、京都を焼け野原にした応仁の乱による戦火を逃れ三河国塩瀬村に移る

天正3年(西暦1575年)、長篠の合戦にて、七代目林宗二が徳川家康に本饅頭を献上

元和元年(西暦1615年)、大坂夏の陣、徳川家康が真田幸村に攻めたてられた際、わずかな手勢を引き連れ逃げ込んだのが、林浄因が居を構えていた林神社

文明九年(西暦1477年)、屋号を「塩瀬」と改め再び京都に戻り、宮中や将軍家に出入りを許され大変繁昌する

万治2年(西暦1659年)、塩瀬清兵衛が江戸に上り日本橋一丁目に店を出し、徳川家綱の御用を承り

明治元年(西暦1868年)、塩瀬総本店の仁木準三が宮内省の御用を拝命

昭和25年(西暦1950年)、現本店所在地に渡辺亀次郎が合資会社塩瀬総本家を設立

数々の戦乱を乗り越え、熟練の菓子職人による技と心を、居を移すも受け継ぐ塩瀬総本家

このような塩瀬総本家には、二つの家訓が存在している※

今日一日の事
一、今日一日三ツ君父師の御恩を忘れず不足を云ふまじき事
一、今日一日決して腹を立つまじき事
一、今日一日人の悪しきを云はず我善きを云ふまじき事
一、今日一日虚言を云はず無理なることをすまじき事
一、今日一日の存命をよろこんで家業大切につとむべき事
右は唯今日一日慎みに候。
翌日ありと油断をなさず、
忠孝を今日いち日と励みつとめよ。

そして、もう一つが、渡辺崋山の遺訓を教訓とし、家訓とした

崋山先生の商人に与へたる教訓
一、先づ朝は召仕より早く起きよ
一、十両の客より百匁の客を大切にせよ
一、買人が気に入らず返しに来たら売る時よりも丁寧にせよ
一、繁盛するに従つて益々倹約せよ
一、小遣は一文よりしるせ
一、開店の時を忘るな
一、同商売が近所にできたら懇意を厚くし互に励めよ
一、出店を開ひたら三ヶ年食料を送れ

いずれも代々受け継がれた家訓となっているが、まさに質素倹約・日々精進の心構えを記している

熟練の菓子職人が心を込めて作る饅頭「志ほせ」を、この家訓を読みながら食してみてはいかがだろうか?

目指せ100年企業!第十九回「合資会社塩瀬総本家」

http://www.shiose.co.jp/

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※雑誌「致知」2009/22012/10より

創業:西暦1337年、西へ八丁「株式会社まるや八丁味噌」

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第十八回「株式会社まるや八丁味噌」創業:延元2年(西暦1337年)

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時は、鎌倉幕府が滅亡し、室町幕府へと移り変わる南北朝の時代

岡崎城から西へ八丁の東海道街道筋で、酒造業を営んでいた大田弥治右衛門が醸造業として自家製の味噌を製造・販売したのが延元2年(西暦1337年)と伝えられている

その後、江戸時代からから始めた八丁味噌造りの伝統の技と味を 頑なに守りながら、現在もその歴史を刻み続けている

土の壁の蔵の中で、6尺の杉の桶を使い、人の手で積み上げる石積みの技

江戸時代から続く、昔ながらの伝統製法は、大豆と塩と水のみを使っている

二夏二冬じっくり寝かせ、大豆の旨みを逃がさない、硬い味噌、昔と変わらぬ伝統の味を受け継いでいる

長寿の秘訣として「まるや八丁味噌」では、下記3つの信念をあげている

1、質素にして倹約を第一とする

2、事業の拡大を望まず継続を優先する

3、顧客、従業員との縁と出会いを尊ぶ

昔ながらの製法を守り、地道に本業に徹し、顧客の信頼を忠実に受け止める

たとえ非効率であっても、歴史と哲学に合致し、頑なに本物を作り続ける姿勢

受け継がれる伝統と追及する挑戦、八丁味噌を通して日本のものづくりを発展させて頂きたいところです

目指せ100年企業!第十八回「株式会社まるや八丁味噌」

http://www.8miso.co.jp/

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創業:西暦1319年、大和家庭薬「株式会社三光丸」

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第十七回「株式会社三光丸」創業:元応元年(西暦1319年)

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時は鎌倉時代後期、元応元年(西暦1319年)には越智家で製造・販売されていたのが「紫微垣丸」

紫微垣とは、古代中国天文学において天球上を3区画に分けた三垣(上垣:太微垣、中垣:紫微垣、下垣:天市垣)のひとつで、天帝の在所を示している

延元元年(西暦1336年)には、後醍醐天皇に献上された紫微垣丸に対して、太陽・月・星を意味する三光から「三光丸」の勅号を賜り改称

数百年前から受け継がれている米田家の「秘伝書」には、三光丸の配合成分が既に記されており、現在と変わりないものとなっており

その成分は、生薬となるセンブリ、ケイヒ、オウバク、カンゾウを原料としており、今なお効能・効果が支持されている事実は当時の完成度の高さを物語っている

天正17年(西暦1589年)、越智氏が滅亡した後、故地にとどまり、三光丸などの家伝薬を作り伝えたのが当代米田家である

その後、大和配置薬として伊勢、河内、畿内へと行商により販路を広め、慶応2年(西暦1866年)には最大勢力だった富山売薬業者との業務協定となる『仲間取締議定書連印帳』を結び

明治32年(西暦1899年)の三光丸同盟会が発足、大正2年(西暦1913年)の朝鮮半島への進出、などを経て時代の流れとともに成長しつづけた「株式会社三光丸」

長寿の秘訣を「よく効く薬であった」と仰る33代目米田徳七郎社長、しかしながら米田家には古くから下記の家訓が伝えられている

「薬は効く事が第一、金儲けする積もりではこの商いはできない。誠心誠意服用する側の立場になれば効能宣伝をしなくても薬の効果は信用される」(米田丈助)

よく効く薬であったからこそ「金儲けではなくお客様目線に徹すれば、満足と信用を得る」と悟られていた訳です

時代の変遷に柔軟に対応しつつも、本質は何も変わることがない、胃に優しい企業としてご活躍頂きたいと願わずにおれません

目指せ100年企業!第十七回「株式会社三光丸」

http://sankogan.co.jp/

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創業800年以上の企業一覧|老舗企業・長寿企業の秘訣を企業理念から学ぶ、企業理念研究所

目指せ100年企業!創業800年以上の企業一覧|老舗企業・長寿企業の秘訣を企業理念から学ぶ、企業理念研究所 第三十回「有限会社藤戸饅頭本舗」創業:寿永3年(西暦1184年) 第二十九回「有限会社五郎兵衛飴総本舗」創業:文治4年(西暦1189年) 第十六回「株式会社白鷺湯たわらや」創業:建久年間(西暦1190〜1198年) 第十五回「株式会社御所坊」創業:建久...Read More »
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