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創業:西暦1550年、濁酒造り「小西酒造株式会社」

目指せ100年企業!老舗企業・長寿企業の秘訣を企業理念から学ぶ、企業理念研究所

第二十七回「小西酒造株式会社」創業:天文19年(西暦1550年)

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天文19年(西暦1550年)、伊丹で薬種商を営む小西新右衞門が始祖となり、濁酒造りを開始

慶長17年頃(西暦1612年頃)、初代当主、新右衛門宗吾が清酒業を本業とするようになり、酒樽を馬の背に乗せ、江戸への運送を開始

寛永12年頃(西暦1635年頃)、二代目当主、小西新右衛門宗宅が江戸へ酒樽を運ぶ途中、雪をいただいた富士の気高さに感動し、清酒を「白雪」と名づける

寛永元年(西暦1661年)、伊丹とその近隣11村を合わせた伊丹郷町が、天領でも藩領でもない、公家の近衛家領となる

元禄10年(西暦1697年)、伊丹郷町に「惣宿老制度」が設けられ、四代当主、小西新右衛門霜巴も帯刀を許され以降、小西家は代々その職につく

天明6年(西暦1786年)、伊丹郷町の惣宿老を独りでつとめるようになった七代当主、小西新右衛門朝巴が修武館を設ける

この時に、小西家の伝統的な行動規範となる「生活即武道」の精神が形成される

明治2年(西暦1869年)、修武館を私塾として一般公開するとともに、師範を招いてますます武道の発展に寄与

昭和8年(西暦1933年)、家業のうち、伊丹酒造部を独立させ小西酒造株式会社を設立

460年、貫いてきた酒造りへの思い

そして

200年、地域社会の秩序安定に尽する思い

このような、伝統と地域を守り続ける小西酒造株式会社の理念

「味づくり 幸せづくり ひとすじに」

永遠の本質は、新しさを求めて、常に変化する流行の中にこそある

つまり、不易流行の経営革新の実践

誰も歩いていない道を行く、小西酒造株式会社の伝統と革新の追及をいつまでも見届けたい次第です

目指せ100年企業!第二十七回「小西酒造株式会社」

http://konishi.co.jp/

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創業:西暦1548年、新潟の蔵元「吉乃川株式会社」

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第二十六回「吉乃川株式会社」創業:天文17年(西暦1548年)

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越後の虎と称された戦国大名の上杉謙信が春日山城に入城した天文17年(西暦1548年)

酒・味噌・醤油といった醸造業が集まっている旧三国街道の摂田屋に若松屋として創業したのが、吉乃川株式会社の始まりです

三国街道は五街道につぐ主要街道で、北国街道・会津通りとともに佐渡三道と呼ばれていました

江戸時代には江戸から佐渡金山への街道となり、金山奉公や参勤交代の殿様行列で往来で賑わう中

吟醸造りを基本に据え、伝統の技術を継承し、日本酒を醸造し続けた歴史

慶応元年(西暦1865年)に泉屋へ、

大正10年(西暦1921年)に中越醸造株式会社へ、

大正11年(西暦1922年)に中越酒造株式会社へ、

昭和48年(西暦1973年)に吉乃川株式会社へと商号を変更する中

米の少ない時代も、酒造りの基本は吟醸造りとし、代々続く技術と伝統を絶えることなく守って続けた吟醸蔵

「酒造りは一に水。二に米、三に技、四に風土」

一を支える仕込水は、敷地内の地下深くから湧き出る日本一の大河、信濃川の伏流水「天下甘露泉」

二を支える米は、米どころ新潟米を原料に使いつつ、一粒の米を四割も五割も、ときには六割以上も削ってしまう吟醸造り

三を支えるのは、つむぎ続けた伝統の技

四を支えるのは、新潟の厳しい寒さ

ただただ同じ事を繰り返すだけでなく、越後の良酒を醸すために積み重ねられた努力

「酒造りひとすじ~その先に美酒あり~」

吉乃川株式会社の理念は、まさに吟醸造りの真髄そのものではないだろうか

目指せ100年企業!第二十六回「吉乃川株式会社」

http://www.yosinogawa.co.jp/

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創業:西暦1532年、北国街道の桑酒「山路酒造有限会社」

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第二十五回「山路酒造有限会社」創業:天文元年(西暦1532年)

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「後園の桑を用いて酒をつくれ」との夢のお告げによって作られたと言われる桑酒

甘さと香ばしさが、皆に喜ばれる中で、山路酒造が創業したのが天文元年(西暦1532年)

その地は、北陸と近畿を結ぶ陸路となる北国街道に面し、文化や産物の行き交う一つの絹の道

湖北の町は、絹糸の産地で養蚕が盛んであった為、北国街道沿い一面には桑畑が広がる一方、

木之本地蔵院の門前町となる木之本宿は、人々の往来も繁く宿場町として長きに渡り栄えていました

桑酒は、桑の葉を使った蒸留酒で、もち米と麹と桑の葉を、独特の方法で焼酎に漬け込み、伝統みりん製法によって造られる

慶長年間に、この地で倒れた旅人が桑酒を呑み、木之本地蔵院に詣でたところ元気を取り戻したという伝えがあり、疲労回復、滋養強壮の効用が評判を呼んだと言われています

大正14年(西暦1925年)には、詩人、島崎藤村が自筆している注文書が残っており、広くその名を知らしめていたことが伺えます

また、清い水と極寒の土地で仕込んだ杜氏の意気込みが感じられる清酒、北国街道

愛されるお酒を造るため杜氏と共にきめ細やかに、大切に仕込む日本で五番目に古い酒蔵

年毎に少しずつ変わる酒の味を蔵元の醍醐味として、これからも多くの人を楽しませて頂きたい次第です

目指せ100年企業!第二十五回「山路酒造有限会社」

http://www.hokkokukaidou.com/

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創業:西暦1520年代、御所御用の「株式会社虎屋」

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第二十四回「株式会社虎屋」創業:大永年間~享禄2年(西暦1520年代)

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遡ること室町時代後期の西暦1520年代、場所は京都御所を東に望む一条通、菓子屋として創業したのが虎屋

はっきりした文献はないが、後陽成天皇の御在位中となる天奨14年(西暦1586年)に御所御用の命を受け

慶長5年(西暦1600年)、関ヶ原の戦いで敗れ、京都に隠れ潜んでいた犬山城主、石川備前守貞清をかくまったのが、黒川円仲氏であり中興の祖としている

寛永12年 (西暦1635年)、明正天皇が御所に行幸された時に、注文されたお菓子を書き留めた『院御所様行幸之御菓子通』には、羊羹や饅頭などと記され

元禄8年 (西暦1695年)、作成された 『御菓子之畫圖』は最古の菓子見本帳として現存しており、当時の商品を知る貴重な手掛かりとなっている

徳川家の統治による江戸時代となっても、5代将軍徳川綱吉や8代将軍徳川吉宗へ、京都からはるか遠い江戸へ菓子を献上する記録が残されている

そして迎えた、明治2年 (西暦1869年)、明治天皇の東京遷都とともに東京へ派遣し御所御用を受け続け、東京と京都での営業を今日まで続けている

代々黒川家が受け継ぐ虎屋、文化2年(西暦1805年)に9代当主黒川光利氏が策定した「掟書」が文献として残っている

内容は、天正年間(西暦1573~1592年)につくられていた店員が守るべき基本的な考え方を書き改めたもので15ヶ条からなっており、

「倹約を第一に心がけ、良い提案があれば各自文書にして提案すること」

「お客様が世間の噂話をしても、こちらからはしない。また、子供や女性のお使いであっても、丁寧に応対して冗談は言わぬこと」

などと、家訓のない黒川家にとっての同様の意をなす書となっているのではないだろうか

また、株式会社虎屋の経営理念は、

「おいしい和菓子を喜んで召し上がって頂く」

そして当代17代目当主黒川光博社長の言葉

「伝統は革新の連続である」

昭和55年(西暦1980年)、パリに出店を果たした株式会社虎屋

これからも、伝統継承と革新経営で、和菓子を世に送り出して頂きたい

目指せ100年企業!第二十四回「株式会社虎屋」

http://www.toraya-group.co.jp/

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創業500年以上の企業一覧|老舗企業・長寿企業の秘訣を企業理念から学ぶ、企業理念研究所

目指せ100年企業!創業500年以上の企業一覧|老舗企業・長寿企業の秘訣を企業理念から学ぶ、企業理念研究所 第四十三回「株式会社千明仁泉亭」創業:文亀2年(西暦1502年) 第四十二回「株式会社兵衛旅館」創業:文正元年(西暦1466年) 第四十一回「株式会社東屋」創業:応長2年(西暦1312年) 第四十回「株式会社のとや」創業:応長元年(西暦1311年) ...Read More »

創業:西暦1505年頃、最古の銘柄「剣菱酒造株式会社」

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第二十三回「剣菱酒造株式会社」創業:永正2年頃(西暦1505年頃)

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稲寺屋伝により、永正2年(西暦1505年)には既に伊丹にて醸造が始まっていた「剣菱」

創業者の名は稲寺屋治郎三郎、

剣菱の酒標は、

天地陰陽夫婦和合の象にて生々たるその瑞気を感じ精気の回天を為すと、

後の醸主坂上桐蔭の時、井戸より不動明王の尊体顕れ瑞喜し、降魔の剣身と鍔形を酒標とすと、

双方ともに強い精力にちなんだ由来が特徴のひとつでもある

また、伊丹酒は下り酒として江戸へ運ばれる一方、

頼山陽が「兵は用ふべし、酒は飲むべし」と絶賛し
名産地池田伊丹が、近衛家の領地でしたので、「近衛家御用」となり
近衛関白が皇室へ献上し
藤田東湖が「傾来一斗剣菱春」と詠み、幕末の勤皇の志士たちが好んで飲む

など数々の逸話が伝わる中、

特にその名を広めたのが、忠臣蔵の大石内蔵助が率いる赤穂四十七士が討ち入り前に、江戸両国橋際蕎麦屋彌助宅の2階にて出陣の祝酒に剣菱で杯を交わした伝えとなります

長い歴史の中で、津国屋勘三郎から始まり数度に渡り蔵が変わり紆余曲折するも、昭和4年(西暦1929年)に5家目となる現在の白樫家による剣菱酒造株式会社となり伊丹より神戸市東灘区へと移っている

現在も5万石にものぼる生産は、ほとんど機械が皆無に等しい手造り

さらに、晩秋から仕込みを始め、春先から秋まで寝かせる「寒造り」と呼ばれる伝統的な山廃仕込み

先述の江戸後期の文人、頼山陽に『質実であれば変動せず、変動しなければ永続する』と言わる由縁となります

剣菱酒造株式会社の家訓は、

「宣伝や販売にお金を使うのではなく、さらに良いお酒を造ることに出た利益を使うこと」

愚直に酒造りに励めば、銘柄は保たれ、輝きは増す

今も昔も変わらない古今第一の味「剣菱」

歴史的背景や懇切丁寧な製造工程を知った上で、口にする剣菱の味はこれまでと違った趣を見せてくれるのではないだろうか?

神戸は灘の宮水がもたらす最古の銘柄「剣菱」

是非一度、ご賞味いただきたい

目指せ100年企業!第二十三回「剣菱酒造株式会社」

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創業:西暦1487年、廻船問屋の酒「株式会社飛良泉本舗」

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第二十二回「株式会社飛良泉本舗」創業:長享元年(西暦1487年)

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秋田県にかほ市にある平沢漁港からほど近い場所に、東北で最も古い歴史を持つ酒蔵がある

時は長享元年(西暦1487年)、八代将軍、足利義政が京都の東山に銀閣寺を建立した年

泉州地方にある廻船問屋を営む斉藤家の分家として、初代、斎藤市兵衛氏がこの地に移り住み稲作をする傍らで酒造りを営む「和泉屋」を創業した

宝暦年間から天保年間を生きた名僧、良寛和尚の友人で、仁賀保に暮らしていた増田九木氏という画家が、良寛和尚へ宛てた手紙にトンチのきいた名言を書き残している

「飛び切り良い、白い水」

平沢の「ひら」にかけ「飛」と「良」を並べ、「白」と「水」は上下に並べると泉州の「泉」

それまでの「金亀」の酒銘から、現在の酒銘「飛良泉」が誕生した由縁となります

その後、明治初期には鉄道の発展とともに廻船業が衰退し、徐々に酒造りに専念する流れとなり

22代目当主、斉藤市兵衛氏は、屋号を「斎藤酒造店」を名乗っていました

現在の本蔵は明治15年(西暦1882年)に建造されたもので、隆々とたる大欅は創業当時から蔵を守り続けている

昭和39年(西暦1964年)6月16日、新潟県の粟島南方沖を震源とするM7.5の「新潟地震」は、斎藤酒造店にとって創業来最大の危機をもたらした

当時の25代目当主、斉藤昭一郎氏、背水の陣で挑んだ再建であったが、伝統の山廃仕込一筋での勝負

再創業まで2年、経営回復まで15年を費やし、見事、暖簾を守り抜き、昭和43年(西暦1968年)に、株式会社飛良泉本舗に改組して今に至っている

伝統の造りは山廃仕込み、正式には山卸廃止仕込みといい、昔ながらの酒母製造方法である

そしてこの仕込みを支えるのが、仕込水

鳥海山系伏流水の硬水であり、水に力があり、思うような麹で山廃が造りやすいという杜氏

壊滅的な危機を乗り越えて、受け継がれた伝統の山卸廃止仕込みと仕込水

この拘りを貫き続ける株式会社飛良泉本舗の理念、それは

「派手な桜の花よりも、地味ながらふくらみのある梅の花のような酒をつくりたい」

伝統の技と心を受け継ぐ職人の手によって大切に大切に造り出される

「飛び切り良い、白い水」

 を搾り出して頂きたい、そう願わずにおれません

目指せ100年企業!第二十二回「株式会社飛良泉本舗」

http://www.hiraizumi.co.jp/

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創業:西暦1465年、御用蕎麦司「株式会社本家尾張屋」

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第二十一回「株式会社本家尾張屋」創業:寛正6年(西暦1465年)

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「やんごとなき御方より召されて、山鳥の尾張の国より都にまいりしは、室町時代花の御所の時なり」

と家譜に伝わる本家尾張屋が菓子司として創業したのが、応仁の乱の前々年となる寛正6年(西暦1465年)

13世紀には、僧侶を介して宋から伝わっていたとされる蕎麦を粉にして練る技術

寺で蕎麦を打つのが間に合わなかった際に、粉と水を練って伸ばして切る菓子司に依頼が入るようになりました

こうした中で、そば処としても、京の町衆に親しまれるようになった尾張屋は、元禄15年(西暦1702年)に初代傳左衛門を名乗り蕎麦司へと転業しました

江戸時代後半には御所に出入りを許された御用司をつとめ、明治時代には宮内庁御用達をつとめている

平成6年に15代目当主となった稲岡傳左衛門社長は、先代でもある父親から次の言葉を残されていました

「お客様の信用が第一。祇園で悪い噂が立てば尾張屋はつぶれる」

京都タカシマヤが改装をした際に、これまでの井戸水が水道水との混合になることで、撤退を検討していたが井戸水のみを汲み上げることで合意し存続となっています

京都の地下水は硬度が低い軟水でなければ、出汁の良い味が出せない拘りを貫く15代目当主

平成22年(西暦2010年)には、16代目当主となる稲岡亜里子さんが写真家としての活動と並行しつつ取締役に就任し家業に携わっている

このような、株式会社本家尾張屋に伝わるのは12代~13代当主が遺した「口上」

やんごとなき御方より召されて、山鳥の尾張の国より都にまいりしは、室町時代花の御所の時なりと家譜に伝え候

思えば五百有余年連麺と相続到し来り候儀、偏に厚顧の賜物、御礼は麺棒にも打のべ難く存じ候

されば方今の文化は当業にまで及び、兎角多産を旨として昔の香を失い候

おりから、茲許は只管原料の吟味手打、手挽の味本位、古風を守りて永年の御引立に可奉答存居候旧習に因みて祖先時代の蕎麦菓子を遺法に基きて謹製致し候次第に有之諺にも、

おそばを召せば、御宝が集ると申候えば、処がら車屋町、召せば廻りも殊更によく、福は御宅へ押寄せ候ぞかし、さて其御福分けは、根が寡産主義の旧習家、扱い物の細長く繰返し繰返し幾久しく、御用命の程乍此上伏して奉願上候

15代目当主、稲岡傳左衛門社長の言葉「古きを知りて、新しきを創る」を想いつつ、暖簾の向こうの蕎麦の香りに引き寄せられてみてはいかがでしょうか?

目指せ100年企業!第二十一回「株式会社本家尾張屋」

http://www.honke-owariya.co.jp/

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創業:西暦1428年、佐久鯉発祥の宿「株式会社佐久ホテル」

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第二十回「株式会社佐久ホテル」創業:正長元年(西暦1428年)

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一面が葦で覆われた湿地帯で大量の積石による地盤改良を必要とした岩村田

この地に、大井家に客将として招かれた、紀伊国造三十八代末裔で望月城の望月河内守滋野朝臣光尚

望月河内守が領主として宿泊や料理を岩村田で供したのが正長元年(西暦1428年)

これが、佐久ホテルの創業であり、初代当主の誕生となります

寛正4年(西暦1463年)の、後花園天皇御勅使御接待を始めとし、武田信玄などの名だたる武将や皇族などを長きに渡り御接待している

慶安元年(西暦1648年)10月19日夜に、小諸藩主青山因幡守宗俊公に篠澤佐五衛門良重が鯉料理を献上し、この史実が佐久鯉発祥の宿と呼ばれる所以となっている

江戸時代から明治初期には、代官や郡代に次ぐ役職で武士と同格となる、中山道岩村田宿の最後の割本として、大名などの心と体を癒し場を提供する職を全うし

明治18年(西暦1856年)、宮内省の命を受け明治天皇の専用室を建設「佐久ホテル」と命名し、16代当主、篠澤佐太郎により改組し現在の法人組織となっている

このような歴史を歩んだ佐久ホテルには、15代当主、篠澤豊太郎が書いた「子孫二申シ残ス事」が家訓として残されています

「子孫たる者、流行の事業に必ず手を出すべからず、自分一時百万円の財産を利根川の汽船会社に投資。前家の源兵衛と同様大破産したる事ありゆえに、馴れさる事業は無理して手を出すべからず。」

この家訓は、最後の割本でもあった15代当主が、蒸気船に投資し大変な損害を被ったことを後世に伝え遺した言葉です

「本業一筋」

佐久鯉発祥の宿として、重く深い伝統とおもてなしで、いつまでも迎えて頂きたいところです

目指せ100年企業!第二十回「株式会社佐久ホテル」

http://www.sakusaku.co.jp/

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創業:西暦1349年、饅頭の元祖「合資会社塩瀬総本家」

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第十九回「合資会社塩瀬総本家」創業:貞和5年(西暦1349年)

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宋の詩人、林和靖の末葉である林浄因が中国から奈良に移り住み、餡入りの饅頭を作り売り出したのが貞和5年(西暦1349年)

これが、日本で初めての饅頭、つまり饅頭の歴史の始まりであり、塩瀬の歴史の始まりとなります

当時、禅宗寺院は上流階級の社交場としても使われており、肉食が許されない僧侶にとって、餡を皮に包んで蒸し上げた甘味は大評判となりました

寛正元年(西暦1460年)、四代惟天盛祐が京都に移ったことにより、奈良の南家と京都の北家とに別れ

応仁元年(西暦1467年)、京都を焼け野原にした応仁の乱による戦火を逃れ三河国塩瀬村に移る

天正3年(西暦1575年)、長篠の合戦にて、七代目林宗二が徳川家康に本饅頭を献上

元和元年(西暦1615年)、大坂夏の陣、徳川家康が真田幸村に攻めたてられた際、わずかな手勢を引き連れ逃げ込んだのが、林浄因が居を構えていた林神社

文明九年(西暦1477年)、屋号を「塩瀬」と改め再び京都に戻り、宮中や将軍家に出入りを許され大変繁昌する

万治2年(西暦1659年)、塩瀬清兵衛が江戸に上り日本橋一丁目に店を出し、徳川家綱の御用を承り

明治元年(西暦1868年)、塩瀬総本店の仁木準三が宮内省の御用を拝命

昭和25年(西暦1950年)、現本店所在地に渡辺亀次郎が合資会社塩瀬総本家を設立

数々の戦乱を乗り越え、熟練の菓子職人による技と心を、居を移すも受け継ぐ塩瀬総本家

このような塩瀬総本家には、二つの家訓が存在している※

今日一日の事
一、今日一日三ツ君父師の御恩を忘れず不足を云ふまじき事
一、今日一日決して腹を立つまじき事
一、今日一日人の悪しきを云はず我善きを云ふまじき事
一、今日一日虚言を云はず無理なることをすまじき事
一、今日一日の存命をよろこんで家業大切につとむべき事
右は唯今日一日慎みに候。
翌日ありと油断をなさず、
忠孝を今日いち日と励みつとめよ。

そして、もう一つが、渡辺崋山の遺訓を教訓とし、家訓とした

崋山先生の商人に与へたる教訓
一、先づ朝は召仕より早く起きよ
一、十両の客より百匁の客を大切にせよ
一、買人が気に入らず返しに来たら売る時よりも丁寧にせよ
一、繁盛するに従つて益々倹約せよ
一、小遣は一文よりしるせ
一、開店の時を忘るな
一、同商売が近所にできたら懇意を厚くし互に励めよ
一、出店を開ひたら三ヶ年食料を送れ

いずれも代々受け継がれた家訓となっているが、まさに質素倹約・日々精進の心構えを記している

熟練の菓子職人が心を込めて作る饅頭「志ほせ」を、この家訓を読みながら食してみてはいかがだろうか?

目指せ100年企業!第十九回「合資会社塩瀬総本家」

http://www.shiose.co.jp/

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※雑誌「致知」2009/22012/10より

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