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創業:西暦1538年、勅許鋳物師「中尾工業株式会社」

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第四十四回「中尾工業株式会社」創業:天文7年(西暦1538年)

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天文7年(西暦1538年)、城主牧野出羽守保成から三河牛久保の中尾助九郎に「三州山東鐘鋳」の許状特権が、安堵されたのを創業とする中尾工業株式会社

中尾家伝記によれば、すべての勅許御鋳物師が名乗るように、中尾家もまた河内国丹南群出身であると記されている

その時期は南朝敗北後とされ、中尾名で最古の鋳造品は、応安3年(西暦1370年)製となる菟足神社の梵鐘であり、14世紀半ばに来住したと推測されている

天正17年(西暦1589年)には、全国の鋳物師支配をはかった真継家との最初の繋がりが記録されており、

その後、断絶の期を迎えるも明治2年(西暦1869年)まで続いたことで、三河方面での鋳物師を統率する役を担っていた

中尾家が鋳物師として大きな発展と遂げたのは、元禄年間(西暦1688~1704年)で梵鐘などの他に鍋釜の鋳造を始めたことに起因している

この時に製造されていたのが、三州釜で西日本一帯でその名を轟かせることとなり、文化年間(西暦1804~1818年)の盛期を経て

文政3年(西暦1820年)に、350石積みの船を大阪で購入したのを皮切りに、以後の大量販売の道を開拓している

大正13年(西暦1923年)頃には、20馬力の蒸気機関を中尾十郎工場に導入し三州釜の生産拡大を諮り20t/日の生産を可能とする20トンの鋳鉄炉を築いた

平成11年(西暦1999年)、鋳造業の長い歴史に幕を閉じ、現在に至っている

古くから三河の鋳物師を統率し、地域の発展に大きな影響をもたらした中尾家

中尾十郎氏は、明治9年(西暦1876年)に、私財を投じて金屋学校を設立している

村人から常に新しいことを考えていると言われた中尾十郎氏が、開校式で挨拶をした時の言葉

「いまは、全国のどんなまずしい村も、小さな村も、身分に関係なく、男女だれでも学校の教育を受けることになりました。このような時期に、金屋学校が開校できたことは、大変うれしいことです。しょう来、この日本を発てんさせ、アメリカやイギリスに負けない国にするために、本校からすぐれた人物がどんどん出ることを願います。」

学問の必要性が高まりつつある中、日々の生活の為に土を耕さなければならない現実との葛藤が人々を支配する変遷期

「わたしがきふをしましょう。わたしのざいさんは、先代様がきずいたものですから、教育のため、村のため、日本の発てんのために役立つならばきっと喜んでくださいます。」

と開校前、そして開校後も続いた寄付の総額は二千円以上

当時は、一家族が一ヶ月の生活をするのに一円だった世の二千円

家族、地域、そして日本の将来を見据えた多大な投資を行った三河の鋳物師、このビジョンは決して絶やしてはならない、そう感じずにはいられませんね

目指せ100年企業!第四十四回「中尾工業株式会社」

http://www.kknakao.com/

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創業:西暦1502年、徳冨蘆花の定宿「株式会社千明仁泉亭」

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第四十三回「株式会社千明仁泉亭」創業:文亀2年(西暦1502年)

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伊香保温泉の開湯は、1900年前とも1300年前ともいわれ、日本に現存する和歌集として最古の「万葉集」にもその名が登場している

この伊香保温泉に、創業450年以上を数える3件の宿の中で最も古い歴史を刻むのが、文亀2年(西暦1502年)に初代千明三右衛門が創業した千明仁泉亭である

仁泉亭の名の由来は、この地を訪れた連歌師の宗祇が痛風の治療をし、「仁の湯だ」と称したことによるとされている

存在せず湯元の地にて民家数戸といった湯小屋時代の湯治場であったが、天正3年(西暦1575年)の長篠の戦いで負傷した武田兵の療養にと、

翌年に武田勝頼が真田昌幸に命じたのが温泉街の始まりで、急傾斜地に作られた温泉街の象徴となる365段の石段の礎が整備された

この石段の一番奥に、伊香保神社がありさらにその奥へ行くと、黄金の湯の源泉があり石段の下に導管を配し小間口から分湯している

明治の文豪、徳冨蘆花が千明仁泉亭で執筆した小説「不如帰」は、伊香保温泉を舞台に日清戦争によって愛する夫と、結核により引き裂かれた浪子の悲恋が描かれたもの

「上州伊香保千明の三階の障子開きて、夕景色をながむる婦人。」

「不如帰」の冒頭の一節にあるこの「千明の三階」は「千明仁泉亭」の部屋のことを示している

また、千明仁泉亭を定宿としていた徳冨蘆花は、その生涯をこの宿で閉じ

歌人、与謝野晶子もまたこの宿を訪れ

「伊香保山 雨に千明の傘さして 行けども時の帰るものかな」

と詠み、文豪、谷崎潤一郎や農政学者、新渡戸稲造もこの宿を訪れている

戦後は、歓楽街温泉として栄え団体客で賑わっていた伊香保温泉だったが、受入れしない方針を変更し受入れ

20代当主の遺訓

「この建物は大事に残してほしい」

の言葉を守る22代女将

しかしながら再び、団体客から個人客への移行が始まっている時流へ求められる対応

「親の仕事を単に引き継ぐだけでは千明の暖簾を守れない」

と主張する一人娘となる23代若女将

2人の相反する主張は、平成6年(西暦2004年)に完成したカフェバー「楽水楽山」となって融合している

伊香保温泉随一の湯量を持ち、宮内庁御用達の老舗にありながら、昔ながらの木造で親しみやすい宿

「お金で買えない歴史を守っていきたい」

変えることの出来ない歴史に学び、変えることの出来る未来を創造し続けて頂きたい次第です

目指せ100年企業!第四十三回「株式会社千明仁泉亭」

http://www.jinsentei.com/

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創業:西暦1466年、太閤秀吉公の命名「株式会社兵衛旅館」

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第四十二回「株式会社兵衛旅館」創業:文正元年(西暦1466年)

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文正元年(西暦1466年)、室町時代の文献「陰涼軒目録」に、「二の湯兵衛」「谷の兵衛」とあり記されていることから、それ以前に創業していたとされる兵衛

文禄3年(西暦1594年)、豊公時代の文献「湯山由緒記」によると12坊が誕生した際に「北の坊」と名乗ったものの

人々が「兵衛、兵衛」と呼ぶことから再び、「兵衛」と公称するようになり、それ以来他の呼び名に変えることなく、数百年の間続いている

また、口伝では有馬温泉をこよなく愛した豊臣秀吉公がにより「兵衛」と名付けられたとされてもいる

寛政10年(西暦1798年)、「摂津名所図会」には、内湯がなかった時代、二の湯に属する兵衛は、宿の幕を張りめぐらし入浴したと記されている

文政10年(西暦1827年)、「下女の案内ではしごを登り二階へ行き、又三階へはしごにて行く、いずれも有馬は三階まで下駄草履を履きながら土足にて行く、すべて板間なり。しかも三階に雪隠小便所も有りて庭の如し」

と、江戸時代から有馬温泉の殆どの宿が三階建てであったことが記されており、訪れる旅人を驚かせた様子が伺える

昭和2年(西暦1927年)、「朝日に向かって燦々と輝いていく」という意味をこめて「向陽閣」と名付けた別館を現在の位置に建築した後、本館を閉鎖に現在に至っている

御所坊は名前の通り天皇家の宿舎と言う意味、 兵衛は御所坊に並ぶ宿であったということから、天皇が行幸の際の供奉役「兵衛府」の宿舎だったと考えられている

太閤秀吉公からその名を授かり、「一の湯」「二の湯」「三の湯」と異なる趣きを味わえる日本最古といわれる有馬の名湯「金泉」

古くから湯治場として多くの人々を癒した兵衛には、長い歴史に積み重ねられた「伝統とおもてなしの心」が育まれている

このような兵衛向陽閣を運営する株式会社兵衛は、企業理念に下記を掲げている

一、お客様に感動を与える旅館
一、夢と誇りを持って働ける会社
一、勝ち残るための強い体質づくり

訪れる人々に心からくつろげる空間と癒しをこれからも提供して頂きたい、そう願う次第である

 

目指せ100年企業!第四十二回「株式会社兵衛旅館」

http://www.hyoe.co.jp/

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創業:西暦1312年、白布温泉開湯の祖「株式会社東屋」

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第四十一回「株式会社東屋」創業:応長2年(西暦1312年)

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正和元年(西暦1312年)、長井貞秀公のとき、鎌倉幕府の御家人佐藤宗純が、吾妻山中で温泉を発見して開湯したと伝えられているのが白布温泉である

開湯後、幕府より湯司の下文を受けたが、子の無い2代目佐藤惣門が、康安2年(西暦1362年)死去した際に、3代目として同御家人の宍戸某を養子とし、宍戸惣蔵と改名した

天授6年(西暦1380年)、8代米沢藩主長井広房公が、伊達宗遠の代等によりこの地を追われてまもない

永徳3年(西暦1383年)、3代目宍戸惣蔵が白布温泉開湯の歴史を書き記している

戦国時代には、永禄7年(西暦1564年)に家督を継いだ伊達輝宗公や、天正12年(西暦1584年)に家督を継いだ伊達正宗公

江戸時代には、慶長9年(西暦1604年)に白布温泉で鉄砲製造を命じた初代米沢藩主上杉景勝公や、寛政2年(西暦1790年)に9代藩主米沢鷹山公

も、この湯に浸かったと伝えられる伝統の東屋旅館

白布温泉開湯以来、宍戸家は現38代目宍戸康裕さんまで、650年間に渡り血脈を絶やさずに湯司として現在に至っている

開湯700年の間に、度重なり起こった洪水や火災により、甚大な被害を被りつつも湯守として復興し受け継がれた伝統

また、白布温泉の源泉地には、100年毎に一基ずつ作るというお地蔵様がある

昨年、開湯700年の節目を迎えた白布温泉

幾度となく直面した困難を乗り越え、築いたこれまでの歴史は受け継がなければならない

鎌倉幕府から命を受けた「湯司」

「湯守のお役目に徹する」

城下町米沢から離れた山里にひっそりと佇むこの地で、開湯から絶えることない歴史を刻む極意はこの言葉に凝縮されている

目指せ100年企業!第四十一回「株式会社東屋」

http://www.shirabu-higashiya.com/

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創業:西暦1311年、代々受け継ぐ真心「株式会社のとや」

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第四十回「株式会社のとや」創業:応長元年(西暦1311年)

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養老元年(西暦717年)、霊峰白山が泰澄大師によって開山し

養老2年(西暦718年)、神託によって発見されたと伝えられる北陸最古の温泉郷として名高い粟津温泉

※粟津温泉の開湯については第五回「有限会社善吾楼」創業:養老2年(西暦718年)を参照

応長元年(西暦1311年)の鎌倉時代後期に、旅亭懐石のとやはこの地で創業している

開湯以来、千三百年、絶ゆることなく湧きつづける粟津のお湯は、のとやにも同様に豊かな湯をもたらしている

慶長10年(西暦1605年)に、加賀三代藩主となった前田利常公がことのほか愛した粟津の湯

江戸時代には、北前船による日本海交易が盛んとなり、全国から湯治客が訪れるようになった

ひそかに向かいの宿屋の下男・竹松に恋をしてたお末がある夜、恋心をおさえきれず、宿の松の木をよじ登って屋根づたいに竹松の部屋へ向かった

ところが途中で足をすべらせ軒下へ落ちて、宿屋は大騒ぎになるが、これがきっかけでお末の想いは竹松に伝わり、めでたくふたりは結ばれた

400年も前から粟津温泉にわる恋物語「おっしょべ恋物語」

恋人の聖地といわれる粟津温泉にもまた、時代とともに変わりゆくもの、変わらざるものが存在する

その流れの中で、旅亭懐石のとやは伝統と革新を融合し、新しい老舗旅館の情緒を追求し続けているが

決して、変わることがないのが、「お客様にご満足頂けるよう努めること」である

そして、その根本にあるのが、「接客を生業」とする精神であり

「真心のおもてなし」

である。家業を「おもてなし」とし代々受け継ぐ技とする旅亭懐石のとや

変わらない真心と、進化し続ける姿、五感で味わってみてはいかがだろうか?

目指せ100年企業!第四十回「株式会社のとや」

http://www.notoya.co.jp/

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創業:西暦1504年、小田原外郎家「株式会社ういろう」

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第三十九回「株式会社ういろう」創業:永正元年(西暦1504年)

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外郎家の始祖は、支那台州に千四百余年続いた公家となる陳延祐が帰化した正平23年(西暦1368年)に遡る

陳延祐は、筑前博多に来た際に元での役職名であった礼部員外郎から一部をとり、更に官職名と間違えられないよう読み方も変え、陳外郎と名乗るようになったのが「ういろう」の由来となる

応永2年(西暦1395年)、外郎が没したのち息子の大年宗奇は、足利義満の招きで京へ上り、効能顕著な「霊宝丹」を天皇へ処方した際に「透頂香」の名を賜り、今もなおその名と受け継いでいる

この丸薬を処方したのが、外郎家であったため「ういろう」と呼ばれるようになり、外国信徒の接待役でもあった大年宗奇がもてなした菓子もまた「菓子のういろう」と呼ばれるようになった

その後、足利氏の祖籍である宇野源氏の世継をした5代目定治が、永正元年(西暦1504年)北條早雲に招かれ小田原へ来住し陳外郎宇野藤右衛門定治と名乗り薬と菓子を造ったのが「小田原外郎家」の創業となる

8代目陳外郎宇野藤右衛門光治の時、豊臣秀吉による小田原攻めで、小田原落城後、秀吉は北条氏の一族家臣を全て追放したが、外郎家に限り

「誠に由緒深き家柄であるから、城下に留まり存続するように」

と命じ、この時より医薬に専心することになった外郎家

代々一子相伝で「藤右衛門」の名を襲名する当主は、24代目を迎える小田原外郎家に伝わる家訓

「薬では儲けない、薬はあくまで人の命を救うもの」

「製造元以外での販売を禁じる」

「消失するたびに店舗を建て替える」

戦国の世を渡り、京都外郎家が衰亡した経緯を持つ小田原外郎家が歩んだ歴史がものの見事に映し出されている

本家本元ういろう小田原にあり、是非ご賞味いただきたい

目指せ100年企業!第三十九回「株式会社ういろう」

http://www.uirou.co.jp/

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創業:西暦1503年、宮中の御朝物、御粽司「川端道喜」

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第三十八回「川端道喜」創業:文亀3年(西暦1503年)

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文亀3年(西暦1503年)、鳥羽出身の武士だった渡辺進が、武士をやめて京都市街南部で餅屋になったのが川端道喜の創業

天文5年(西暦1536年)、法華の乱に巻き込まれた渡辺進は、一旦京都を離れるものの

天文11年(西暦1542年)、後奈良天皇勅許の綸旨により京都に戻るものの以前の名では店を出すことが出来ず

同じく鳥羽出身の中村五郎左衛門を娘婿に迎え、渡辺彌七郎と名乗り商いを発展させた

元亀3年(西暦1572年)、剃髪入道した渡辺彌七郎は、居士名の「渡辺道喜」を名乗るようになり初代道喜が誕生している

また、室町後期を迎えていた京都では、幕府の疲弊とともに御所の財政も逼迫していた

進と道喜は、天皇に歳事や祝事とは別に毎日色々な品を献上するようになり、やがては塩餡を包んだ餅を毎朝献上するのが習わしとして定着した

この餅が「御朝物」であり、その後、明治天皇が東京へ移られるまでの約300年間、毎朝続けられた

また、吉野に住まう「葛族」が朝廷に滋養強壮によく、古来非常食として用いられていた葛を献上した

この葛で葛菓子を製作することになったのが出入りの菓匠であった初代道喜である

天正5年(西暦1577年)、御所の御修造にあたり、竹木を運ぶ工人等の出入りのため、建礼門の東横に穴をつくらせたのも初代渡辺道喜で

この穴門は道喜門と名付けられ、現在も御所の建礼門の東横に残っている

 

 

「川端道喜」と名乗ったのは、4代目頃とされているが、初代道喜の中村五郎左衛門が天正19年(西暦1591年)に藍染川の「川端」に住んだことにちなんでいる

また、2代目に店を継承した、初代道喜は武野紹鴎の門下で茶道を学び、同門下の千利休や、利休の後継者古田織部との親交を深めている

また、9代目道喜は、儒学者の皆川淇園、国学者の伴蒿渓と御所の絵師の原在正の手を借り川端家の家史をまとめた『川端道喜 家の鏡』を作成し

初代道喜が京都へ移り住み、天皇家や織田信長、豊臣秀吉、千利休との親交を深めた経緯が伺える古文書として遺されている

このような川端道喜の生い立ちが、現在でも裏千家新年大茶会に「御菱葩」を提供する歴史の始まりだったといえる

それでもなお、粽を中心とし茶の湯の主菓子を作り続けてきた川端道喜

その製法は、薪ではなくガスで加熱するようになった他はほとんど創業当初から変えていないとされる

吉野葛と砂糖を天然水で炊いて練り、洗った笹の葉をずらりと並べ、その上に練り上がった生地を載せていく

形を整え、藺草できりきりと巻き上げ、これを束ねて長時間ゆで、笹の香りを粽に移し余分な糖分を落とせば完成

粽に適した良質の笹や葛は年々手に入りにくくなっているが、材料の質を落とすことはできない

また、笹の葉はすべて手洗いで1本を巻くのに5~6枚の笹を使い、100本巻くのに4時間は要する

「変えないのではなく、変えることができない」

と仰る16代目道喜代理の川端知嘉子さん

川端家の申し送り(家訓)は、

「品物を吟味して濫造せざること」

これは決してたくさん作るな、という意味ではなく、乱れた作り方をするな、という意味である

たくさん作れば、目が行き届かなくなって駄目になるとも言えるが、決して合理化がいけない、ということでもない

皇室や茶道の大家からも認めていただいた菓子の味を後世に伝えていくことを使命とする川端道喜

御粽司の名と味を、今後も受け継いで頂きたいと願います

目指せ100年企業!第三十八回「川端道喜」

http://douki1512.exblog.jp/

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創業:西暦1502年、長崎最古の菓子司「平戸蔦屋」

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第三十七回「平戸蔦屋」創業:文亀2年(西暦1502年)

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延暦23年(西暦804年)、第16次遣唐使に随行した真言宗の開祖空海も平戸から海を渡り

建久2年(西暦1191年)、宋から帰国した臨済宗の開祖栄西により初めて禅規が行われたといわれ

古くから海外への中継地点として栄えた平戸

 

文亀2年(西暦1502年)、この地に創業したと伝えられる長崎で最古となる五百余年の歴史ある菓子司「平戸蔦屋」

天文12年(西暦1543年)、ポルトガル船来航による鉄砲伝来とともに伝わったカスドース

天文19年(西暦1550年)、ポルトガルの貿易船が初めて平戸に入港、同年再び入港の際にかのフランシスコ・ザビエルも来航し

以後、スペイン・オランダ・イギリスの船が相次いで入港し、キリスト教の布教をはじめ様々な西洋文化や品が平戸へ伝わった

慶長5年(西暦1600年)、関ヶ原の戦いで東軍に付いた松浦氏は、徳川家康より6万3千石の領地を安堵され確立した平戸藩の御用菓子司を賜っている

鎮信流という茶道の一派を興したほど茶道に造詣が深かった、平戸藩第4代藩主であった松浦鎮信公

茶事を年中行事として嗜む松浦家とともに歩み、弘化4年(西暦1847年)には第35代松浦熈公が命じられた「百菓之図」が完成し、現存している

平戸蔦屋のカスドースは、ポルトガルとの交流によって伝わった南蛮菓子のひとつで、ポルトガル語にすると「甘いカステラ」を意味する

当時大変貴重だった卵と砂糖を使用するカンドース

一口大に切り分けたカステラを溶いた卵黄に、くぐらせ熱した糖蜜に浮かべ最後に砂糖をまぶす

職人が手間ひまをかけ一つ一つ手作りするカスドース

本店の「按針の館」は築300年以上の歴史を刻んだ趣きある建物

茶道に造形深い藩主と歩んだ御用菓子司の歴史

「時代の変化が激しい今だからこそ、変わらないものを残す。」

と語る二十四代目当主の松尾俊行氏

西洋から伝わり、庶民は味わうことが出来なかった殿様の銘菓

この平戸伝統の銘菓を後世に残す担い手は、流行に流されず、昔から決められたことを愚直に守るのが使命

口伝により受け継がれる伝統の職人技とその味を、高貴な歴史とともに伝えて頂きたい次第です

 

目指せ100年企業!第三十七回「平戸蔦屋」

http://www.hirado-tsutaya.jp/

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創業:西暦1477年、日本最古の菓子「水田玉雲堂」

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第三十六回「水田玉雲堂」創業:文明9年(西暦1477年)

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貞観5年(西暦863年)、清和天皇は疫病の流行により幾千人もの人々が亡くなったことに御心を悩ませられ、同年5月20日に神泉苑で御霊会を執行した

この時、神前に供えてこれに疫病よけの一種の煎餅を創製し、身の安全をはかるように広く庶民に授与したのが「唐板煎餅」の始まりです

御霊会は、その後も絶えることなく執り行われてきましたが、応仁元年(西暦1467年)、応仁の乱により残念ながら絶えてしまった

応仁の乱が鎮まった文明9年(西暦1477年)、御霊神社境内に茶店を造った水田家の先祖は、唐板煎餅の由来を耳にし、古書を頼りに製法を会得し、再興をはかった

その風味は多くの人々に喜ばれ、厄病よけの煎餅としても世に知られるようになり、御霊神社の名物となったのが水田玉雲堂の創業です

明治維新前までは、皇室に皇子が誕生されると、120日を経て御霊神社にご参詣される際に、この「唐板煎餅」を御土産としてお買い上げになられ

氏子においても初宮詣り、七五三詣り、年詣りの節には御土産として用いられるようになり、殊にその雅味は茶人各位に珍重され、現在も三千家はじめ多くの人に愛されている

素朴な薄い焼き菓子である唐板は上御霊神社の祭神のひとり、吉備真備に由来する

真備は遣唐使で中国大陸に渡った学者で、さまざまな文物を持ち帰ったが、その中に唐板も含まれており、日本最古の菓子といわれる由縁である

唐板は、小麦粉と卵と砂糖、塩というとても簡単な材料で、すべて手づくりで焼いている

簡単な材料に簡単な製法、それだけに五百余年に渡り同じ味を作り続けるのは、決して容易なことではない

同じ厚さ・味に作るために、目覚めたときから、なるべく作る側の変化が少ないように心掛けている

例えば、道具であったり、材料であったり、をすべて同じように同じ場所に置く

毎日変わる気温や湿度の変化を感じ取るだけでなく、心身の変化にも対応する

世は移り、人は変わり、菓子もまた新しきものが生まれ古きものは姿を消す

そんな中、水田玉雲堂は、

この何百年間「唐板」のみを作ってきた

何百年も作り続けてきた、素朴で優しい味をこれからも伝えて頂きたい

目指せ100年企業!第三十六回「水田玉雲堂」

http://gyokuundo.com/

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創業:西暦1461年、羊羹の発祥「株式会社駿河屋」

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第三十五回「株式会社駿河屋」創業:寛正2年(西暦1461年)

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寛正2年(西暦1461年)、木曽源氏の一門の出である岡本善右衛門氏が、京都伏見に「鶴屋」の屋号で饅頭処の商いを始めたのが創業

天正17年(西暦1589年)、蒸羊羹を改良したた「伏見羊羹」別名「紅羊羹」を発売し、豊臣秀吉公の大茶会で諸侯に引き出物として絶賛

元和5年(西暦1619年)、徳川頼宜公が紀州にお国替えの際、5代目善右衛門の鶴屋が紀州家御用菓子司に任命。紀州に御用本店、伏見に総本家を設置

万治元年(西暦1658年)、煉羊羹の材料選別、配合具合、炊き上げ方法など製法を工夫し、寒天と和三盆糖を用いて完全な煉羊羹を確立

貞享2年(西暦1685年)、第五代将軍徳川綱吉公の御息女鶴姫が紀州家に御降嫁となり、同名が憚るとし屋号「鶴屋」を返上

元禄2年(西暦1689年)、鶴字法度に伴い、徳川家所縁の駿河国にあやかって、屋号「駿河屋」を賜る

昭和19年(西暦1944年)、株式会社駿河屋へと改組

昭和36年(西暦1961年)、東京証券取引所、大阪証券取引所に株式上場

平成17年(西暦2005年)、東京証券取引所、大阪証券取引所の株式上場廃止

 

羊羹の元祖として和歌山と京都伏見において、伝統の味を持つ羊羹を製造販売

和歌山では、創業当初の饅頭処から連綿と続く「本ノ字饅頭」を昔ながらの製法のまま、その味を伝える株式会社駿河屋

平成17年(西暦2005年)に架空増資事件により、東京と大阪の両証券取引所で上場廃止となった老舗

創業550余年で始めての創業家以外の社長が就任し、失われた伝統と名誉を取り戻すべく奔走している

同年6月に制定された基本方針

  1. 全ての法令の遵守とその精神を尊重し、社会的良識をもって行動し、反社会的勢力と関係を持ちません。
  2. 社会的信用を第一に考えた経営と事業行動を行うと共に、自主的・積極的に環境保全活動に取り組みます。
  3. 公正・透明・自由な市場競争を行い、お客様の満足と信頼に基づき、社会的に有益な価値の創造と提供を行います。
  4. 広く社会とのコミュニケーションを行い、適時適切な企業情報を積極的かつ公正に開示します。
  5. 全ての人々の人種と個性を尊重し、ゆとりと豊かさを表現し能力を発揮できる安全な企業環境確保に努めます。
  6. 事業活動を行う国・地域の文化や習慣を尊重し、社会の発展に貢献し、良き企業市民として積極的に社会貢献活動を行います

「菓子を通じて、感動と和みのある心豊かな生活シーンの提案をする」

を理念とする株式会社駿河屋

伝統や技術に裏打ちされた日本の文化である和菓子で、心からのくつろぎを提供するとともに

また、紆余曲折した今こそ、代々受け継がれてきた宗祖の遺訓

「菓子のみに生きる」

を忠実に再現し、老舗の威光を取り戻して頂きたい次第です

目指せ100年企業!第三十五回「株式会社駿河屋」

http://www.souhonke-surugaya.co.jp/

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