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創業:西暦1550年頃、元祖糀入りいかの塩辛「株式会社美濃屋吉兵衛商店」

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第四十七回「株式会社美濃屋吉兵衛商店」創業:天文19年頃(西暦1550年頃)

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近江地方の豪族浅井家の一族であったと伝えられている「みのや吉兵衛」の元祖、初代吉兵衛が

琵琶湖の東一円に勢力を張っていた浅井一族の一人で、織田信長に敗れ去った際に近江から美濃へ移ったが

美濃もまた戦乱の迎えており外郎家をたよりに、平和に繁栄していた小田原に来住し天文19年頃(西暦1550年頃)に創業した

東海道五拾三次の宿場として栄えた小田原宿、その名物のひとつに挙げられる「みのや吉兵衛」の「いかの塩から」「梅干」

大漁となったイカを5代目吉兵衛が買い上げ、保存食して塩漬けにしたがたべられる味ではなく

途方に暮れていたところ、糀を入れたところ見事に発酵し、名物「糀入りいかの塩から」の誕生となった

明治時代には、御用達となり、昭和57年(西暦1982年)には、皇室献上品に選ばれた

「かまぼこ美濃」

「いかの塩から」

「梅干」

は、現在も献上されている

東海道小田原宿の中で、最もにぎやかだった筋違橋町にあった「みのや吉兵衛」、当時の掲げられていた看板が4枚現存している

その一つに、

「掛売りいたしませぬ」

がある

「みのや吉兵衛」に伝わる口上書きの一つで、掛売りを断る旨を明記しつつも

主人の判断によるとした上で、毎月返済は原則とする、但書きが続いている

また、伝統の味の継承と新たなビジネスにチャレンジし、併せて地域社会に貢献していく事を使命とし

「融合の実践」

「全てに前傾姿勢」

を掲げてる株式会社美濃屋吉兵衛商店

武士から商人への生業を得た小田原の地で、これからも伝統の技を継承し、旅人をもてなして頂きたい次第である

目指せ100年企業!第四十七回「株式会社美濃屋吉兵衛商店」

http://www.minoya450.co.jp/

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創業:西暦1546年、伊達家の御殿湯「株式会社不忘閣」

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第四十六回「株式会社不忘閣」創業:天文15年(西暦1546年)

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享禄元年(西暦1528年)に、佐藤彦惣がアオヌキの木の下から源泉が湧き出ているのを発見し開湯した青根温泉

天文15年(西暦1546年)に設けられた湯宿が湯元不忘閣の創業とされている

慶長17年(西暦1612年)、佐藤家は仙台藩主伊達家より青根温泉の湯別当を仰せつかり御殿湯を設置

その後、代々藩主の保養所守りの役と関守りの役を兼ねる不忘閣

 

明治時代以降は、高浜虚子、与謝野鉄幹晶子夫妻、川端康成、芥川龍之介、山本周五郎などの文人が宿泊し、この地を作品の一部となって残されている

青根御殿は明治37年(西暦1904年)に消失するも、昭和7年(西暦1932年)に18代佐藤仁右衛門により当時のまま総檜造りで再建されている

また、共同浴場として利用されていた大湯も平成18年(西暦2006年)に一旦廃止されたが、平成20年(西暦2008年)に不忘閣の内湯として再開している

老朽化が著しかった大湯の建物は管理が川崎町であった為、近代的な施設を新築し運営することとなったが、歴史ある大湯の閉鎖に惜しまれる声が寄せられた

歴史ある大湯の再建に乗り出したのは不忘閣21代湯守の佐藤仁右衛門さん

「大湯は全国のメジャーなブランド。後世に残すことを第一に考えた。採算は度外視です」

土地を町から借上げ、釘を使わず、木材はすべて青森ヒバ、壁には温泉でこねた土塗、で仕上げた建物

重厚な石組みによる石風呂は、藩主伊達家を癒した石湯を忠実に再現したもの

青根の湯守の宿命を、脈々と受け継ぐ

「永々湯主 佐藤仁右衛門」

「代々この温泉の湯を守ってくれ」

と、初代佐藤仁右衛門が伊達政宗公から受けたと伝えられる言葉は、これまでと同様にこれからも守り続けられるのだろう

目指せ100年企業!第四十六回「株式会社不忘閣」

http://www.fubokaku.com/

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創業:西暦1540年、長野最古の蔵元「株式会社酒千蔵野」

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第四十五回「株式会社酒千蔵野」創業:天文9年(西暦1540年)

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稲作が盛んで、余った年貢米を醸して村の人々に振舞ういわゆる百姓酒屋として、天文9年(西暦1540年)に酒千蔵野は創業している

甲斐国の武田信玄公と越後国の上杉謙信公との間で、北信濃の支配権を巡り争われた12年にも及ぶ川中島の戦い

最も激戦となったのが、この地、川中島地区であったことから川中島の戦いと呼ばれる

この戦いの最中に、武田信玄公が千野の酒を召し上がられたと伝えられている

酒の味わいに大きく影響する水の良し悪し、千野の歴史を支える仕込み水は、千曲川と犀川の豊かな伏流水が蔵内の井戸から汲み上げられる

また、千曲川と犀川に挟まれた三角州である川中島地区は古くから灌漑され二毛作も可能な肥沃な地は酒造りには最適な環境であった

明和2年(西暦1765年)、千野多右ヱ門氏が旧酒蔵を建立し、15石の木桶を12本導入した

この頃より、杜氏を中心とした蔵人により、冬場のみの酒造りに移行したと記されている

昭和38年(西暦1963年)、有限会社千野酒造場が設立され、数々の賞を受けていていたが、

平成10年(西暦1998年)に開催される長野冬季五輪の準備により、敷地内が道路用地となり、平成7年(西暦1997年)に新酒蔵が建立された

平成12年(西暦2000年)には、蔵元の一人娘である千野麻里子さんが、蔵元の体調不良により予定より2年早く杜氏へ就任し

平成19年(西暦2007年)に、株式会社酒千蔵野に商号変更し現在に至っている

長野県では初めてとなる女性杜氏の経歴は

東京農業大学醸造学科で学んだ後に、国税局醸造試験場で2年間の研修を経て、有限会社千野酒造場に入社し、8年の杜氏修行

「お酒達ちには個性があるんです。素直でいい子もいれば、手のかかるヤンチャな子もいる。毎日その表情を変えるんですね。私は学校の先生のような存在かもしれません。みんなの良いところを引き出し、悪いところを直すように導いて行くんです」

と仰る麻里子杜氏

国内での日本酒の消費が低迷する中で、効率を重視し生産量を求めることをせず、日本の醸造技術を世界に誇れる日本の文化と信じ

「心で醸す酒」

「心が感じる酒」

に拘る心の酒造りをする株式会社酒千蔵野の理念は、

地元に根ざした造り酒屋
地域の人たちが集う蔵元、
フレッシュな酒が運ぶ華やかな空間

地域の皆様に愛される蔵元へ、
信州の歴史と文化の承継
誇るべき日本文化の発信を世界へ

自然の恵みと対話しながら、醸し出される酒千蔵野の酒は、まさに伝統技術と最先端の芸術作品といえます

川中島で培った歴史と新たな技術を融合し、受け継がれた文化をこれからも守り、そして攻め続けて頂きたい次第です

目指せ100年企業!第四十五回「株式会社酒千蔵野」

http://www.shusen.jp/

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創業:西暦1538年、勅許鋳物師「中尾工業株式会社」

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第四十四回「中尾工業株式会社」創業:天文7年(西暦1538年)

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天文7年(西暦1538年)、城主牧野出羽守保成から三河牛久保の中尾助九郎に「三州山東鐘鋳」の許状特権が、安堵されたのを創業とする中尾工業株式会社

中尾家伝記によれば、すべての勅許御鋳物師が名乗るように、中尾家もまた河内国丹南群出身であると記されている

その時期は南朝敗北後とされ、中尾名で最古の鋳造品は、応安3年(西暦1370年)製となる菟足神社の梵鐘であり、14世紀半ばに来住したと推測されている

天正17年(西暦1589年)には、全国の鋳物師支配をはかった真継家との最初の繋がりが記録されており、

その後、断絶の期を迎えるも明治2年(西暦1869年)まで続いたことで、三河方面での鋳物師を統率する役を担っていた

中尾家が鋳物師として大きな発展と遂げたのは、元禄年間(西暦1688~1704年)で梵鐘などの他に鍋釜の鋳造を始めたことに起因している

この時に製造されていたのが、三州釜で西日本一帯でその名を轟かせることとなり、文化年間(西暦1804~1818年)の盛期を経て

文政3年(西暦1820年)に、350石積みの船を大阪で購入したのを皮切りに、以後の大量販売の道を開拓している

大正13年(西暦1923年)頃には、20馬力の蒸気機関を中尾十郎工場に導入し三州釜の生産拡大を諮り20t/日の生産を可能とする20トンの鋳鉄炉を築いた

平成11年(西暦1999年)、鋳造業の長い歴史に幕を閉じ、現在に至っている

古くから三河の鋳物師を統率し、地域の発展に大きな影響をもたらした中尾家

中尾十郎氏は、明治9年(西暦1876年)に、私財を投じて金屋学校を設立している

村人から常に新しいことを考えていると言われた中尾十郎氏が、開校式で挨拶をした時の言葉

「いまは、全国のどんなまずしい村も、小さな村も、身分に関係なく、男女だれでも学校の教育を受けることになりました。このような時期に、金屋学校が開校できたことは、大変うれしいことです。しょう来、この日本を発てんさせ、アメリカやイギリスに負けない国にするために、本校からすぐれた人物がどんどん出ることを願います。」

学問の必要性が高まりつつある中、日々の生活の為に土を耕さなければならない現実との葛藤が人々を支配する変遷期

「わたしがきふをしましょう。わたしのざいさんは、先代様がきずいたものですから、教育のため、村のため、日本の発てんのために役立つならばきっと喜んでくださいます。」

と開校前、そして開校後も続いた寄付の総額は二千円以上

当時は、一家族が一ヶ月の生活をするのに一円だった世の二千円

家族、地域、そして日本の将来を見据えた多大な投資を行った三河の鋳物師、このビジョンは決して絶やしてはならない、そう感じずにはいられませんね

目指せ100年企業!第四十四回「中尾工業株式会社」

http://www.kknakao.com/

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創業:西暦1502年、徳冨蘆花の定宿「株式会社千明仁泉亭」

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第四十三回「株式会社千明仁泉亭」創業:文亀2年(西暦1502年)

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伊香保温泉の開湯は、1900年前とも1300年前ともいわれ、日本に現存する和歌集として最古の「万葉集」にもその名が登場している

この伊香保温泉に、創業450年以上を数える3件の宿の中で最も古い歴史を刻むのが、文亀2年(西暦1502年)に初代千明三右衛門が創業した千明仁泉亭である

仁泉亭の名の由来は、この地を訪れた連歌師の宗祇が痛風の治療をし、「仁の湯だ」と称したことによるとされている

存在せず湯元の地にて民家数戸といった湯小屋時代の湯治場であったが、天正3年(西暦1575年)の長篠の戦いで負傷した武田兵の療養にと、

翌年に武田勝頼が真田昌幸に命じたのが温泉街の始まりで、急傾斜地に作られた温泉街の象徴となる365段の石段の礎が整備された

この石段の一番奥に、伊香保神社がありさらにその奥へ行くと、黄金の湯の源泉があり石段の下に導管を配し小間口から分湯している

明治の文豪、徳冨蘆花が千明仁泉亭で執筆した小説「不如帰」は、伊香保温泉を舞台に日清戦争によって愛する夫と、結核により引き裂かれた浪子の悲恋が描かれたもの

「上州伊香保千明の三階の障子開きて、夕景色をながむる婦人。」

「不如帰」の冒頭の一節にあるこの「千明の三階」は「千明仁泉亭」の部屋のことを示している

また、千明仁泉亭を定宿としていた徳冨蘆花は、その生涯をこの宿で閉じ

歌人、与謝野晶子もまたこの宿を訪れ

「伊香保山 雨に千明の傘さして 行けども時の帰るものかな」

と詠み、文豪、谷崎潤一郎や農政学者、新渡戸稲造もこの宿を訪れている

戦後は、歓楽街温泉として栄え団体客で賑わっていた伊香保温泉だったが、受入れしない方針を変更し受入れ

20代当主の遺訓

「この建物は大事に残してほしい」

の言葉を守る22代女将

しかしながら再び、団体客から個人客への移行が始まっている時流へ求められる対応

「親の仕事を単に引き継ぐだけでは千明の暖簾を守れない」

と主張する一人娘となる23代若女将

2人の相反する主張は、平成6年(西暦2004年)に完成したカフェバー「楽水楽山」となって融合している

伊香保温泉随一の湯量を持ち、宮内庁御用達の老舗にありながら、昔ながらの木造で親しみやすい宿

「お金で買えない歴史を守っていきたい」

変えることの出来ない歴史に学び、変えることの出来る未来を創造し続けて頂きたい次第です

目指せ100年企業!第四十三回「株式会社千明仁泉亭」

http://www.jinsentei.com/

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創業:西暦1466年、太閤秀吉公の命名「株式会社兵衛旅館」

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第四十二回「株式会社兵衛旅館」創業:文正元年(西暦1466年)

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文正元年(西暦1466年)、室町時代の文献「陰涼軒目録」に、「二の湯兵衛」「谷の兵衛」とあり記されていることから、それ以前に創業していたとされる兵衛

文禄3年(西暦1594年)、豊公時代の文献「湯山由緒記」によると12坊が誕生した際に「北の坊」と名乗ったものの

人々が「兵衛、兵衛」と呼ぶことから再び、「兵衛」と公称するようになり、それ以来他の呼び名に変えることなく、数百年の間続いている

また、口伝では有馬温泉をこよなく愛した豊臣秀吉公がにより「兵衛」と名付けられたとされてもいる

寛政10年(西暦1798年)、「摂津名所図会」には、内湯がなかった時代、二の湯に属する兵衛は、宿の幕を張りめぐらし入浴したと記されている

文政10年(西暦1827年)、「下女の案内ではしごを登り二階へ行き、又三階へはしごにて行く、いずれも有馬は三階まで下駄草履を履きながら土足にて行く、すべて板間なり。しかも三階に雪隠小便所も有りて庭の如し」

と、江戸時代から有馬温泉の殆どの宿が三階建てであったことが記されており、訪れる旅人を驚かせた様子が伺える

昭和2年(西暦1927年)、「朝日に向かって燦々と輝いていく」という意味をこめて「向陽閣」と名付けた別館を現在の位置に建築した後、本館を閉鎖に現在に至っている

御所坊は名前の通り天皇家の宿舎と言う意味、 兵衛は御所坊に並ぶ宿であったということから、天皇が行幸の際の供奉役「兵衛府」の宿舎だったと考えられている

太閤秀吉公からその名を授かり、「一の湯」「二の湯」「三の湯」と異なる趣きを味わえる日本最古といわれる有馬の名湯「金泉」

古くから湯治場として多くの人々を癒した兵衛には、長い歴史に積み重ねられた「伝統とおもてなしの心」が育まれている

このような兵衛向陽閣を運営する株式会社兵衛は、企業理念に下記を掲げている

一、お客様に感動を与える旅館
一、夢と誇りを持って働ける会社
一、勝ち残るための強い体質づくり

訪れる人々に心からくつろげる空間と癒しをこれからも提供して頂きたい、そう願う次第である

 

目指せ100年企業!第四十二回「株式会社兵衛旅館」

http://www.hyoe.co.jp/

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創業:西暦1312年、白布温泉開湯の祖「株式会社東屋」

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第四十一回「株式会社東屋」創業:応長2年(西暦1312年)

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正和元年(西暦1312年)、長井貞秀公のとき、鎌倉幕府の御家人佐藤宗純が、吾妻山中で温泉を発見して開湯したと伝えられているのが白布温泉である

開湯後、幕府より湯司の下文を受けたが、子の無い2代目佐藤惣門が、康安2年(西暦1362年)死去した際に、3代目として同御家人の宍戸某を養子とし、宍戸惣蔵と改名した

天授6年(西暦1380年)、8代米沢藩主長井広房公が、伊達宗遠の代等によりこの地を追われてまもない

永徳3年(西暦1383年)、3代目宍戸惣蔵が白布温泉開湯の歴史を書き記している

戦国時代には、永禄7年(西暦1564年)に家督を継いだ伊達輝宗公や、天正12年(西暦1584年)に家督を継いだ伊達正宗公

江戸時代には、慶長9年(西暦1604年)に白布温泉で鉄砲製造を命じた初代米沢藩主上杉景勝公や、寛政2年(西暦1790年)に9代藩主米沢鷹山公

も、この湯に浸かったと伝えられる伝統の東屋旅館

白布温泉開湯以来、宍戸家は現38代目宍戸康裕さんまで、650年間に渡り血脈を絶やさずに湯司として現在に至っている

開湯700年の間に、度重なり起こった洪水や火災により、甚大な被害を被りつつも湯守として復興し受け継がれた伝統

また、白布温泉の源泉地には、100年毎に一基ずつ作るというお地蔵様がある

昨年、開湯700年の節目を迎えた白布温泉

幾度となく直面した困難を乗り越え、築いたこれまでの歴史は受け継がなければならない

鎌倉幕府から命を受けた「湯司」

「湯守のお役目に徹する」

城下町米沢から離れた山里にひっそりと佇むこの地で、開湯から絶えることない歴史を刻む極意はこの言葉に凝縮されている

目指せ100年企業!第四十一回「株式会社東屋」

http://www.shirabu-higashiya.com/

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創業:西暦1311年、代々受け継ぐ真心「株式会社のとや」

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第四十回「株式会社のとや」創業:応長元年(西暦1311年)

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養老元年(西暦717年)、霊峰白山が泰澄大師によって開山し

養老2年(西暦718年)、神託によって発見されたと伝えられる北陸最古の温泉郷として名高い粟津温泉

※粟津温泉の開湯については第五回「有限会社善吾楼」創業:養老2年(西暦718年)を参照

応長元年(西暦1311年)の鎌倉時代後期に、旅亭懐石のとやはこの地で創業している

開湯以来、千三百年、絶ゆることなく湧きつづける粟津のお湯は、のとやにも同様に豊かな湯をもたらしている

慶長10年(西暦1605年)に、加賀三代藩主となった前田利常公がことのほか愛した粟津の湯

江戸時代には、北前船による日本海交易が盛んとなり、全国から湯治客が訪れるようになった

ひそかに向かいの宿屋の下男・竹松に恋をしてたお末がある夜、恋心をおさえきれず、宿の松の木をよじ登って屋根づたいに竹松の部屋へ向かった

ところが途中で足をすべらせ軒下へ落ちて、宿屋は大騒ぎになるが、これがきっかけでお末の想いは竹松に伝わり、めでたくふたりは結ばれた

400年も前から粟津温泉にわる恋物語「おっしょべ恋物語」

恋人の聖地といわれる粟津温泉にもまた、時代とともに変わりゆくもの、変わらざるものが存在する

その流れの中で、旅亭懐石のとやは伝統と革新を融合し、新しい老舗旅館の情緒を追求し続けているが

決して、変わることがないのが、「お客様にご満足頂けるよう努めること」である

そして、その根本にあるのが、「接客を生業」とする精神であり

「真心のおもてなし」

である。家業を「おもてなし」とし代々受け継ぐ技とする旅亭懐石のとや

変わらない真心と、進化し続ける姿、五感で味わってみてはいかがだろうか?

目指せ100年企業!第四十回「株式会社のとや」

http://www.notoya.co.jp/

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創業:西暦1504年、小田原外郎家「株式会社ういろう」

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第三十九回「株式会社ういろう」創業:永正元年(西暦1504年)

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外郎家の始祖は、支那台州に千四百余年続いた公家となる陳延祐が帰化した正平23年(西暦1368年)に遡る

陳延祐は、筑前博多に来た際に元での役職名であった礼部員外郎から一部をとり、更に官職名と間違えられないよう読み方も変え、陳外郎と名乗るようになったのが「ういろう」の由来となる

応永2年(西暦1395年)、外郎が没したのち息子の大年宗奇は、足利義満の招きで京へ上り、効能顕著な「霊宝丹」を天皇へ処方した際に「透頂香」の名を賜り、今もなおその名と受け継いでいる

この丸薬を処方したのが、外郎家であったため「ういろう」と呼ばれるようになり、外国信徒の接待役でもあった大年宗奇がもてなした菓子もまた「菓子のういろう」と呼ばれるようになった

その後、足利氏の祖籍である宇野源氏の世継をした5代目定治が、永正元年(西暦1504年)北條早雲に招かれ小田原へ来住し陳外郎宇野藤右衛門定治と名乗り薬と菓子を造ったのが「小田原外郎家」の創業となる

8代目陳外郎宇野藤右衛門光治の時、豊臣秀吉による小田原攻めで、小田原落城後、秀吉は北条氏の一族家臣を全て追放したが、外郎家に限り

「誠に由緒深き家柄であるから、城下に留まり存続するように」

と命じ、この時より医薬に専心することになった外郎家

代々一子相伝で「藤右衛門」の名を襲名する当主は、24代目を迎える小田原外郎家に伝わる家訓

「薬では儲けない、薬はあくまで人の命を救うもの」

「製造元以外での販売を禁じる」

「消失するたびに店舗を建て替える」

戦国の世を渡り、京都外郎家が衰亡した経緯を持つ小田原外郎家が歩んだ歴史がものの見事に映し出されている

本家本元ういろう小田原にあり、是非ご賞味いただきたい

目指せ100年企業!第三十九回「株式会社ういろう」

http://www.uirou.co.jp/

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創業:西暦1503年、宮中の御朝物、御粽司「川端道喜」

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第三十八回「川端道喜」創業:文亀3年(西暦1503年)

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文亀3年(西暦1503年)、鳥羽出身の武士だった渡辺進が、武士をやめて京都市街南部で餅屋になったのが川端道喜の創業

天文5年(西暦1536年)、法華の乱に巻き込まれた渡辺進は、一旦京都を離れるものの

天文11年(西暦1542年)、後奈良天皇勅許の綸旨により京都に戻るものの以前の名では店を出すことが出来ず

同じく鳥羽出身の中村五郎左衛門を娘婿に迎え、渡辺彌七郎と名乗り商いを発展させた

元亀3年(西暦1572年)、剃髪入道した渡辺彌七郎は、居士名の「渡辺道喜」を名乗るようになり初代道喜が誕生している

また、室町後期を迎えていた京都では、幕府の疲弊とともに御所の財政も逼迫していた

進と道喜は、天皇に歳事や祝事とは別に毎日色々な品を献上するようになり、やがては塩餡を包んだ餅を毎朝献上するのが習わしとして定着した

この餅が「御朝物」であり、その後、明治天皇が東京へ移られるまでの約300年間、毎朝続けられた

また、吉野に住まう「葛族」が朝廷に滋養強壮によく、古来非常食として用いられていた葛を献上した

この葛で葛菓子を製作することになったのが出入りの菓匠であった初代道喜である

天正5年(西暦1577年)、御所の御修造にあたり、竹木を運ぶ工人等の出入りのため、建礼門の東横に穴をつくらせたのも初代渡辺道喜で

この穴門は道喜門と名付けられ、現在も御所の建礼門の東横に残っている

 

 

「川端道喜」と名乗ったのは、4代目頃とされているが、初代道喜の中村五郎左衛門が天正19年(西暦1591年)に藍染川の「川端」に住んだことにちなんでいる

また、2代目に店を継承した、初代道喜は武野紹鴎の門下で茶道を学び、同門下の千利休や、利休の後継者古田織部との親交を深めている

また、9代目道喜は、儒学者の皆川淇園、国学者の伴蒿渓と御所の絵師の原在正の手を借り川端家の家史をまとめた『川端道喜 家の鏡』を作成し

初代道喜が京都へ移り住み、天皇家や織田信長、豊臣秀吉、千利休との親交を深めた経緯が伺える古文書として遺されている

このような川端道喜の生い立ちが、現在でも裏千家新年大茶会に「御菱葩」を提供する歴史の始まりだったといえる

それでもなお、粽を中心とし茶の湯の主菓子を作り続けてきた川端道喜

その製法は、薪ではなくガスで加熱するようになった他はほとんど創業当初から変えていないとされる

吉野葛と砂糖を天然水で炊いて練り、洗った笹の葉をずらりと並べ、その上に練り上がった生地を載せていく

形を整え、藺草できりきりと巻き上げ、これを束ねて長時間ゆで、笹の香りを粽に移し余分な糖分を落とせば完成

粽に適した良質の笹や葛は年々手に入りにくくなっているが、材料の質を落とすことはできない

また、笹の葉はすべて手洗いで1本を巻くのに5~6枚の笹を使い、100本巻くのに4時間は要する

「変えないのではなく、変えることができない」

と仰る16代目道喜代理の川端知嘉子さん

川端家の申し送り(家訓)は、

「品物を吟味して濫造せざること」

これは決してたくさん作るな、という意味ではなく、乱れた作り方をするな、という意味である

たくさん作れば、目が行き届かなくなって駄目になるとも言えるが、決して合理化がいけない、ということでもない

皇室や茶道の大家からも認めていただいた菓子の味を後世に伝えていくことを使命とする川端道喜

御粽司の名と味を、今後も受け継いで頂きたいと願います

目指せ100年企業!第三十八回「川端道喜」

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