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創業:西暦1503年、宮中の御朝物、御粽司「川端道喜」

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第三十八回「川端道喜」創業:文亀3年(西暦1503年)

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文亀3年(西暦1503年)、鳥羽出身の武士だった渡辺進が、武士をやめて京都市街南部で餅屋になったのが川端道喜の創業

天文5年(西暦1536年)、法華の乱に巻き込まれた渡辺進は、一旦京都を離れるものの

天文11年(西暦1542年)、後奈良天皇勅許の綸旨により京都に戻るものの以前の名では店を出すことが出来ず

同じく鳥羽出身の中村五郎左衛門を娘婿に迎え、渡辺彌七郎と名乗り商いを発展させた

元亀3年(西暦1572年)、剃髪入道した渡辺彌七郎は、居士名の「渡辺道喜」を名乗るようになり初代道喜が誕生している

また、室町後期を迎えていた京都では、幕府の疲弊とともに御所の財政も逼迫していた

進と道喜は、天皇に歳事や祝事とは別に毎日色々な品を献上するようになり、やがては塩餡を包んだ餅を毎朝献上するのが習わしとして定着した

この餅が「御朝物」であり、その後、明治天皇が東京へ移られるまでの約300年間、毎朝続けられた

また、吉野に住まう「葛族」が朝廷に滋養強壮によく、古来非常食として用いられていた葛を献上した

この葛で葛菓子を製作することになったのが出入りの菓匠であった初代道喜である

天正5年(西暦1577年)、御所の御修造にあたり、竹木を運ぶ工人等の出入りのため、建礼門の東横に穴をつくらせたのも初代渡辺道喜で

この穴門は道喜門と名付けられ、現在も御所の建礼門の東横に残っている

 

 


「川端道喜」と名乗ったのは、4代目頃とされているが、初代道喜の中村五郎左衛門が天正19年(西暦1591年)に藍染川の「川端」に住んだことにちなんでいる

また、2代目に店を継承した、初代道喜は武野紹鴎の門下で茶道を学び、同門下の千利休や、利休の後継者古田織部との親交を深めている

また、9代目道喜は、儒学者の皆川淇園、国学者の伴蒿渓と御所の絵師の原在正の手を借り川端家の家史をまとめた『川端道喜 家の鏡』を作成し

初代道喜が京都へ移り住み、天皇家や織田信長、豊臣秀吉、千利休との親交を深めた経緯が伺える古文書として遺されている

このような川端道喜の生い立ちが、現在でも裏千家新年大茶会に「御菱葩」を提供する歴史の始まりだったといえる

それでもなお、粽を中心とし茶の湯の主菓子を作り続けてきた川端道喜

その製法は、薪ではなくガスで加熱するようになった他はほとんど創業当初から変えていないとされる

吉野葛と砂糖を天然水で炊いて練り、洗った笹の葉をずらりと並べ、その上に練り上がった生地を載せていく

形を整え、藺草できりきりと巻き上げ、これを束ねて長時間ゆで、笹の香りを粽に移し余分な糖分を落とせば完成

粽に適した良質の笹や葛は年々手に入りにくくなっているが、材料の質を落とすことはできない

また、笹の葉はすべて手洗いで1本を巻くのに5~6枚の笹を使い、100本巻くのに4時間は要する

「変えないのではなく、変えることができない」

と仰る16代目道喜代理の川端知嘉子さん

川端家の申し送り(家訓)は、

「品物を吟味して濫造せざること」

これは決してたくさん作るな、という意味ではなく、乱れた作り方をするな、という意味である

たくさん作れば、目が行き届かなくなって駄目になるとも言えるが、決して合理化がいけない、ということでもない

皇室や茶道の大家からも認めていただいた菓子の味を後世に伝えていくことを使命とする川端道喜

御粽司の名と味を、今後も受け継いで頂きたいと願います


目指せ100年企業!第三十八回「川端道喜」

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